大阪夏の陣
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大阪夏の陣
大阪冬の陣では、真田幸村らの活躍により豊臣方が善戦します。徳川家康は、戦いが長期に渡るのは得策ではないと判断し、和議を持ちかけるのですが、豊臣方としては、断固戦うべきか?和議に応じるか?なかなか答えがでない。
しかし、そこに徳川家康からの揺さぶりがかかります。城内へのトンネルを掘ったり、連日に渡り大砲を打ち込んだり・・・。
これらの揺さぶりは秀頼の母、淀殿を震え上がらせ、ついに和議に応じることになるのです。
家康の出した講和条件は、城の外堀を埋めること。そのかわり、秀頼や淀殿を含め城にいる者たちには責任を一切問うことはない、というもの。豊臣方にとっても悪い条件ではない。
これには、大阪城にいる者たちも安心して講和をのむことにします。
しかし!!!
家康の真の目的は、城の堀を埋め尽くして大阪城を丸裸にしてしまうことでした。秀吉の築き上げた難攻不落の大阪城では、この堀を埋め尽くさなければ落とすことは不可能。そこで、家康は最初からいったん和睦し、大阪城の堀を埋めることも計算の内であったといわれています。
講和がなった翌日より家康の軍勢は一斉に外堀を埋め始めます。まぁ、ここまでは豊臣方も約束どおりなので、ただ見ているわけですが、次に三の丸、二の丸と、どんどん城に向かって堀を埋めていく・・・。
ちょっと約束違うんじゃない?
と、慌てふためいてもすでに遅い・・・。わずか1ヶ月も経たぬうちに難攻不落の大阪城は、平地に立つ裸の城になってしまうのです。
これには豊臣方も黙ってみている訳にはいきません。堀の一部を掘り返し、大量の兵糧を城へ運び込み、浪人を雇います。
これを知った家康は、「おっ、やる気なの?」とばかりに豊臣方に最後通告をだします。
秀頼が大阪城を出て地方に国替えするか、城内の浪人をすべて解雇するか選べ!
当然、そんな条件を豊臣方も呑むことはできません。拒絶を家康に伝えると、作戦通りとばかりに家康の攻撃が始まります。大阪夏の陣の始まりです。
豊臣軍10万(一説には6万)VS徳川軍20万(15万)
籠城であれば、勝利も見えてくる兵力差ですが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかありません。しかも、大阪城に集められていた兵は寄せ集めの軍兵。
そんな中でも、豊臣方の真田幸村が冬に陣に続き、大阪夏の陣でも活躍を見せます。
真田隊は3000の兵にて家康の孫である松平忠直隊(13000)を死に物狂いで撃破すると、家康の本陣へと突入。この時、真田幸村の隊は、家康本陣を2度に渡って攻撃し、その距離12キロも後退させたといいます。その為、家康はこの時、真田隊によって討ち取られており、後は家康の影武者が代わりと努めたという風説が立つほどです。
しかし、3度目の突入にて真田隊は力尽き、真田幸村も無名兵士の槍に倒れ討ち死にすることになるのでした。
もはや、落城目前に迫った大阪城では、大野治長により秀頼と淀殿の助命を求めますが、家康はこれを断固拒否。燃え上がる大阪城内にて2人は自刃するのです。秀頼23歳、淀殿は49歳前後だったといわれています。これにより、豊臣家は2代で終わりを告げ、戦国の世は終焉。その後は、島原の乱を除き、明治維新まで約250年もの間、平和な時代が続くことになるのでした。
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