歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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織田信長・桶狭間の戦い


 

『尾州桶狭間合戦』
 織田信長・桶狭間の戦い

 永禄3年。1560年5月、織田信長のいる尾張に侵攻する今川義元。その大軍を前に織田信長は、明確な作戦も指示せぬまま、イビキをかいて寝ていたといいます。

 その様を見た重臣たちは「もはや、これまで」と口々に嘆きました。

 この桶狭間の戦いこそが、後に織田信長が世間に名を知らしめる戦いとなるのです。

 5月19日。今川が織田の丸根砦、鷲津砦に攻めかかったという報告を受けた織田信長。今までイビキをかいて寝ていた彼は、突如立ち上がり出陣の号令を出すのです。

 実は、信長には確かな戦略がありました。当時、今川の元にいた徳川家康(当時は松平元康)は、大高城に大量の兵量を送り込んでいました。ということは、今川義元は、尾張の沓掛から大高城に入ることは明白。その城に向かうには、狭間といわれる細い窪地を通る必要があります。

 その狭間こそが少ない兵で今川の大軍に対抗できうる唯一の場所であると織田信長は目をつけていました。
 

 そして、今川軍は見事、信長の戦術にはまることになります。狭間に差し掛かった今川軍の元に農民たちが酒や餅をもってやってきました。農民たちは、今川軍にゴマをすりすり・・・。「ちょうど、腹もすいたし、ここらで昼食でもとるか」と今川軍は、狭間で小休止をとることにします。・・・しかし、この農民たちは信長が仕向けたスパイ。蜂須賀小六や前野長康らです。

 蜂須賀や前野らが必死に作り上げたチャンス。この期を逃してはならぬ、と信長はいち早く狭間に到達することを考え軍を進めます。そこに天も信長に味方します。突如、豪雨が降りしきり、今川軍の足を更に止めてくれたのです。

 さらに、この雨により視界が悪くなったのに乗じて織田信長の軍は敵の目をかわしつつ兵を進めていきます。そして、遂に桶狭間山の山頂に至ったときには雲と雲の間からは、太陽の光が差し込んでいました。

 「皆、かかれ!」

 織田信長の大声をかわきりに、軍は今川義元の本軍めがけて突進します。そう、狙うは総大将である今川義元ただひとりです。

 突如現れた、織田の軍に今川軍は逃げ惑います。そんな中でも必死に円陣を作り義元を守る忠誠心の高い兵たち。しかし、それが逆に信長の軍に義元の居場所を知らせることとなり、ついに毛利新助により義元は首を落とされるのでした。この時、毛利は義元によって左の指を食いちぎられたともいわれています。

 圧倒的に不利な条件でありながら、情報と地形を熟知し、判断力に秀でた織田信長は、この桶狭間の戦いの勝利により「尾張に織田信長あり」と世間に知らしめることになるのです。



織田信長の尾張統一


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