歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記朝鮮出兵

 

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役) 


 1592年(文禄元年)、秀吉は朝鮮出兵を決意します。

 この秀吉による朝鮮出兵の目的についてはいろいろな説がありますが、はっきりとは分かっていません。

 ポルトガルやスペインの侵攻に対抗する為。家臣の大名が国内の領土を奪い合って内紛が起きるのを防ぐ為。単に秀吉の征服欲が強かった。などなど・・・。

 秀吉の真意は、もはや闇の中となってしまいましたが、日本統一を成し遂げた秀吉は明征服をも目論み、対馬の宗氏に命じて朝鮮に服属を命じます。

 しかし、朝鮮はこれを当然拒否!

 1592年に名護屋城に本陣を置き、15万もの兵で朝鮮に攻め込むのでした。(
文禄の役

 この軍勢は9軍からなり、加藤清正、小西行長、鍋島直茂、黒田長政、大友義統、島津義弘・豊久、福島正則、長宗我部元親、小早川隆景、立花宗茂、毛利輝元、宇喜多秀家、羽柴秀勝、細川忠興、宗義智ら、そうそうたる面々。

 この戦国の世を生き抜いてきた男たちに対して、比較的平和な時代をすごしていた朝鮮。しかも、軍備もまだ整っていない状態でしたので秀吉軍は連戦連勝を重ねます。

 1592年の4月に釜山(ふざん)に上陸した日本軍は、わずか1日で釜山城を落とし、5月には首都の漢城(かんじょう・ソウル)を占領。

 この快進撃に秀吉は、後陽成天皇を北京に移して、養子の秀次を明にて関白の職に自身は中国皇帝になる計画を立てていたともいわれています。

 ですが、その快進撃もここまで・・・

 明からの援軍が登場し、朝鮮の将軍、李舜臣(りしゅんしん)が亀甲船という甲羅のように甲板全体を覆う軍艦を率いて水軍を出動させると制海権を握られ、秀吉軍は糧を運ぶすべを奪われます。

 これにより、戦線が膠着状態となると小西行長らは明を通じて講和交渉に入りますが、秀吉はあくまで強気の姿勢。交渉は決裂となり、1597年(慶長2年)には、再度朝鮮へ出兵することになるのです。(
慶長の役

 1597年2月、14万の兵にて再び朝鮮へと出兵する秀吉軍。しかし、2度目の出兵では、朝鮮半島の南部にまでしか攻め入ることもできず、持久戦へともつれ込みます。1597年の7月には日本軍が制海権を奪取しますが、1598年の8月に秀吉がなんと病死。10日間は秀吉の死を隠して戦い続けるものの結局は撤退を決意するのでした。

 この戦いでは、秀吉に近い家臣たちが出兵していった為、彼らを疲弊させたとともに、出陣しなかった徳川家康は勢力を絶大なものにしていくことになります。

 なお、文禄・慶長の役は韓国では、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭寇といわれています。





 文禄の役の進路

 1592年4月、釜山に秀吉軍は上陸。わずか1日で釜山城を落城。

 1592年6月、平壌を占領。

 1592年7月、加藤清正らは朝鮮の王子2人を捕らえ、、明の領地にまで侵攻する。

慶長の役

 1597年2月に出兵するも2度目の出兵は、朝鮮半島の南部に留まる。

 1598年8月、秀吉が亡くなると日本軍は撤退を決意する。