黒田官兵衛と竹中半兵衛
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竹中半兵衛
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黒田官兵衛 |
豊臣秀吉の天下盗りを支えた2人の軍師。黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)と竹中半兵衛重治(たけなかはんべいしげはる)。この2人は名前に「兵衛」が付くことから”二兵衛と称せられます。
竹中半兵衛は、もとは斎藤道三から3代目の斉藤龍興(たつおき)の家臣でした。当時は、信長が美濃へ連年のように攻撃を仕掛けていたころ。しかし、主君の龍興は、酒と女に溺れて政治にも興味を示さない。そこで、竹中半兵衛は、龍興をいさめるために稲葉山城をわずか16名(一説には17名)で奪取。その後は、手勢を引き入れ完全に稲葉山城を固めてしまいます。それを知った信長は、「美濃の国の半分をお前にやるから、稲葉山城を渡せ」と持ちかけますが、竹中半兵衛は、これを一蹴。「これで国が危険な状態であるのが分かったろう」と、ばかりに龍興に稲葉山城を返します。
その後、竹中半兵衛は隠居しますが、まだまだ22歳と若い。結局、美濃の斉藤家は、信長によって滅ぶことになり、信長は竹中半兵衛を美濃攻めで頭角を現していた秀吉に勧誘するよう命令します。秀吉の軍師となった竹中半兵衛は、知略にたけ兵法に通じていた為、戦場における陣形をすべて任されたといわれています。
半兵衛は、1579年6月まだ36歳という若さで病死しました。
一方、黒田官兵衛は、播磨御着 城主小寺政職(まさとも)に仕える家臣でした。この地は、西に毛利氏と東に織田と強国に挟まれてしまっていました。両国に対抗できるほどの力もなく、どちらにつくかが最大の難題。そんな中、まだ若かった黒田官兵衛は、「織田につくべき」と重臣たちを説き伏せます。
その後は、中国攻めを任された秀吉と共に活躍していきます。備中高松城の戦いでは、秀吉に「城ごと水に沈めてしまいましょう」と大胆な策を提案し、見事成功させたのも黒田官兵衛だったと云われています。
また、本能寺で信長が討たれた時、黒田官兵衛は、「今こそ、天下盗りのチャンスです」と秀吉に囁き、明智光秀を討つシナリオを作ったといいます。
黒田官兵衛の能力には、秀吉も恐れていたようで天下統一後に与えられた領地はわずか12万石。その後は、隠居し秀吉に敵意がないことを示しめさねばならないほどでした。
その黒田官兵衛にも天下盗りへの野心はあったといわれ、その最大のチャンスが関ヶ原の戦いでした。関ヶ原の戦いによって手薄になった九州をまずは手中におさめ、その後は関ヶ原で疲労しきった両軍の隙を突き天下を盗ろうと考えていたといわれます。その為、黒田官兵衛は、全財産を投げ打ち軍を整えます。天下への野心が悟られぬよう息子を関ヶ原の戦いへと向かわせますが、その息子が関ヶ原で大活躍します。関ヶ原の戦いは、わずか1日で終わり、黒田官兵衛の天下への思いもそこで泡と消えてしまいました。
豊臣秀吉を天下人へと導いた2人の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛ですが、意外なことに2人が同時に秀吉に仕えていた期間はわずか4年。ふたりに関するエピソードは数多く存在し、後世の創作といわれるものも多いのですが、魅力的で知略に長けていたことは事実ですね。
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