信長の仇討ちを成し遂げた功績を背景に秀吉は、誰もが予想だにしなかった人物を後継者として指名します。三法師です。
三法師はまだ3歳。赤ちゃんです。
秀吉は、「家督相続は、長男が継ぐのが基本。信長様の長男、信忠様が死んでしまっている以上、その息子である三法師君(さんぼうしぎみ)をお立てするのが筋だ!」ともっともらしい理由を述べます。
しかし、秀吉は腹の内は、まだ幼い三法師を担いで自分が後見人となれば、天下取りに王手がかけられるという考えでした。もちろん、柴田勝家は、そんな秀吉の心中はわかりきっていますので反論しますが、他の重臣たちは秀吉を支持。これは、丹羽長秀、池田恒興の2人に対して、そうとうな根回しをしていたと考えられます。また、本来なら清洲会議に参加するはずであった滝川一益。彼は、北条氏との争いに敗れ、関東から敗走中であったため清洲会議に間に合わなかったのですが、これも秀吉が一枚噛んでいるという説もあります。
三法師を担ぎ実権を握った秀吉は、その後の遺領処分においても、柴田勝家はわずか6万石のプラスにどとめたのに対して、自らは70万石の上乗せ(しかも、京都もとる)など早速、動き出すのです。
そして、この清洲会議を境に秀吉と勝家の軋轢は高まり、後の賤ヶ岳の戦いへと発展していくことになります。
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