歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記惣無事令
   

豊臣秀吉の惣無事令(そうぶじれい)とは?

  
 
 
 秀吉は、1585年、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を屈服させて四国を平定しますが、天下統一までには、まだまだ多くの敵がおりました。九州、関東、東北・・・。

 そこで、秀吉は、当時の天皇から関白という地位を授かり、「オレは、朝廷から日本の支配を委ねられたぞ!皆のもの戦争をヤメロ!」と命令を下しました。これは、大名はもとより、農民に至るまで徹底し、村同士の小競り合いなども秀吉は認めなかったといいます。

 この惣無事令は、はじめ九州に対して発せられ、翌年には関東、奥羽にも発せられました。

 まず、九州の薩摩の島津氏に送られた文章が次のような内容です。

「勅令に基づいて書き送る。九州でいまだ戦乱が続いているのは良くないことである。国や群の境目争いに関しては双方の言い分を聞き追って決定を下す。とにかく、すぐに争いをやめよ。そうでなければ、直ちに成敗に向かうぞ」

 これに対して島津氏は「そういわれても境を接する大友氏から攻撃を受けているので防戦をせざるを得ない」と回答しています。

 1587年、秀吉は島津義久が、この「惣無事令」に違反したとみなし他の戦国大名に出兵を求めて九州に進出。義久を屈服させています。

 小田原の北条氏もこの「惣無事令」に反したということで屈服させ、東北の最大勢力、伊達政宗もこれにより、慌てて屈服せざるを得なくなりました。

 つまり、秀吉は関白という立場を手に入れた後は、惣無事令を発してきわめて効率的に天下統一を成し遂げていったといえます。

 秀吉から攻撃を受けた島津氏も降伏後に薩摩国、大隅国などを領地として与えられています。つまり、「関白である俺は、お前たちを滅ぼしたいわけじゃないんだよ。とにかく、争いをやめて俺様に屈服しなさいよ。そうすりゃ、ちゃんと領地もあげるんだからさぁ〜」と武力討伐をにおわせながら、所領の安堵もちらつかせ長期戦や消耗戦をせず、関白になった後は、天下統一を成し遂げていったというわけですね。

 「惣無事令」は、刀狩令などと合わせて「豊臣平和令」とも言われます。

惣無事令

秀吉が全国の支配者としての立場から諸大名に対して争いの停止と領地確定の委任を命じたもの。