側用人 牧野成貞と柳沢吉保
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側用人(そばようにん)という役職が登場したのは、5代将軍徳川綱吉の時代。当時は、先代の家綱が幼少期に将軍となったこともあって老中などの官僚が大きな力を持っていました。
さすがに、将軍といえども彼らの存在は目の上のたんこぶ・・・。そこで、綱吉は自らの意思で政治が動かせるよう、手足となる側近を近くに置くことにします。
綱吉が将軍となった翌年の1681年12月に以前からの家臣であった牧野成貞(まきの なりさだ)を側用人に任命。彼が側用人の第一号です。
側用人の主な仕事は、将軍の日常生活など私的な部分を担当しました。今でいう秘書みたいな感じかな。牧野成貞は14年間側用人として在任したんですが、その間には十数人の側用人がいたといいます。牧野は、その中心的役割を果たしていたんですね。
この牧野が去った後、彼の代わりとして登場したのが柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)です。
側用人と聞いて、まず頭に浮かぶのは、この柳沢吉保という人がほとんどじゃないですかね。
柳沢吉保は、徳川一門にしか与えられたことのなかった甲斐国を得たり、側用人から大老格にまでのし上がったことから将軍綱吉から極端に重視されていたともいわれます。
人によっては、柳沢吉保のことを政治を思いのままに動かしていたようなイメージを持つ人もいるでしょうが、実際の政治への参加をみると、どうもそんなことはなく、老中を無視して単独で政治を動かしているようなこともなく、あくまで綱吉の代弁者として動いていたようです。
綱吉は彼ら側用人と共に生類憐みの令などのちょっと個性的な政策を打ち出していくことになりました。
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