歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記生類憐れみの令 

生類憐みの令 

 
 生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)は、5代将軍綱吉(つなよし)によって出された法令です。「犬公方」とあだ名が付けられ、悪政といわれた、この生類憐みの令。

 では、生類憐みの令について少し詳しく見ていきましょう。

 生類憐みの令を出した徳川綱吉。彼は、本来将軍になるべくしてなったのではありません。4代将軍家綱(いえつな)には、子供がいませんでした。そこで選ばれたのが3代将軍家光の四男、綱吉です。

 綱吉は、学問好きの将軍とも言われ、前半の政治については「天名の治(てんなのち)」として称えられています。しかし、彼を補佐していた大老・堀田正俊(ほったまさとし)がなくなった辺りから様子がおかしくなっていきました。

 綱吉は、男子に恵まれず悩んでいました。そこで、彼の母親、
桂昌院(けいしょういん)が薦める僧侶の話に耳を傾けます。

「綱吉さまは前世で殺傷したから子供ができないのです。これからは、動物を大事にしなさい。さすれば、子供ができることでしょう・・・と。」

 それが、綱吉の出した極端な動物愛護の精神を強制する生類憐みの令を出した理由だと言われています。(このお坊さんの話は作り話だという説も多いのですが・・・)

 この法令により、綱吉が戌年であった為に犬は特に大事にされ(綱吉は100匹もの狆という種の犬を飼っていたとも言われている)、さらには小動物の殺生までもが厳しく禁止の対象となりました。

 さすがに、この法令には幕府の中にも批判がでており、あの水戸黄門でおなじみの徳川光圀(みつくに)は、綱吉をいさめる為に犬の毛皮を送りつけたとも言われています。

 結局、綱吉には跡継ぎが出来ず、亡くなる直前まで、この生類憐みの令は残すように遺言を残すが、6代将軍となった家宣(いえのぶ・綱吉の甥)は、綱吉が亡くなると葬儀も終えぬうちに生類憐みの令を即時廃止を決定するのですが・・・。

 この生類憐みの令は、後世の評判は非常に悪いのですが、現在では、単に悪政という訳ではなかったとの見方も強まってきております。


生類憐みの令について更に詳しく

徳川綱吉について

生類憐みの令の真実

新井白石 正徳の治

側用人 牧野成貞と柳沢吉保
生類憐みの令廃止後の犬達



生類憐みの令とは、綱吉の時代に出された「生き物を大切にしよう」という一連の法令の通称です。
主な内容は次の通り。 
1685年  将軍の御成先では、犬猫を繋がなくてもよい。
1687年  病人、牛馬を捨ててはいけない。魚、鳥、貝を食べる為に売り買いしてはいけない。 
1689年  田畑を荒らし、危害を加える猪や狼、鹿は追い払う目的であれば、銃で威嚇してもよい。 
1691年  蛇や犬、猫、鼠に至るまで芸を教え込んで見せ物にするようなことをしてはならない。 
1693年  釣りをしてはいけない。 
1694年 犬を傷つけたものは捕らえるように。江戸の金魚の数を申請すること。 
1695年  中野に作った犬小屋に野犬を収容せよ。