歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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天下三分の計


 諸葛亮孔明といえば、三顧の礼のあと劉備に天下三分の計を進言したと言われていますね。しかし、実際、劉備に初めて会った時に最初に進言したのは別の事だといわれています。

 天下三分の計といった壮大なプランではなく、もっと身近で現実的な内容でした。

 当時の劉備は荊州の劉表という同族の人物のもとに身を寄せていました。

 そして、劉備の軍といえば、そこいらの人間をかき集めてきて兵に仕立て上げたような軍勢。

 諸葛亮は、「荊州は人口が少なくないのに、戸籍に記載されいる人は実際よりもかなり少ないと思われます。ですから、戸籍にしたがって兵士を一戸あたり何人といったように集めると不公平が生まれ不満もでます。なので、劉表に話をして、まずは戸籍に載っていない家を記載させてから兵士を取り立てれば軍勢は増強できるでしょう」

 諸葛亮は、軍事的なプランではなく、非常に身近で現実的、尚且つシンプルな行政的進言をし劉備に認められています。

 さらに、劉備は自身が死ぬまで諸葛亮を単独で軍事行動に従わせておらず、蜀を攻めるときなども趙雲や張飛といったベテランを一緒にしており、蜀を平定してからも成都の留守を預からせ、後方の支援や補給を任せているので、そもそも劉備は諸葛亮を軍事的な能力というよりも行政官としての能力をかっていたのではないかともいわれています。

 三国志の著者である陳寿は「蜀志」の諸葛亮伝にて「応変の将略はその長ずるところにあらざるか」という評価を諸葛亮に下しています。つまり、臨機応変に作戦を変更する実戦指揮は諸葛亮の得意とするところではなかったという訳ですね。

 天才軍師、諸葛亮孔明。しかし、本当の彼は、地道で現実的な戦略を用いる人物だったのかもしれません。