歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記三国志三顧の礼

三顧の礼


 
三顧の礼(さんこのれい)とは、三国志の中で劉備と諸葛亮がであう重要な場面ですね。劉備が3度諸葛亮のもとを訪ね「天下三分の計」を示された場面です。

 では、この三顧の礼の場面を詳しく見てみましょう。

 曹操が着々と己の権力を強めていく中、劉備はというと何の基盤もなく、自分の領地も無くなってしまい、袁紹のもとに身を寄せている状態でした。その袁紹と曹操とが官渡の戦いで激戦を繰り広げます。

 劉備にとって更に悪いことに、その曹操によって袁紹が敗れてしまうのです。「漢帝国を立て直すために献帝を我が物のように操る曹操を倒そう」と大義があったにも関わらず、劉備は何もできないまま。結局は、曹操に攻められ、南方の荊州に逃れながら同族の劉表のもとへ身を寄せることになるのでした。

 そこで劉備は新野という小城を与えられます。しかし、この時すでに、劉備の年齢は40歳を過ぎ・・・。

 ある日、厠に立った劉備は、馬に乗ることも少なくなり、腿にも贅肉がついてしまった己の姿を眺め嘆きます。この場面は「
脾肉の嘆(ひにくのたん)」という故事成語になっていますね。

 そんなころ、劉備のもとに徐庶という人物が訪ねてきました。劉備は、彼が優れた人物であることをひと目で見抜き、軍師に登用します。その徐庶に会うように勧められたのが諸葛亮です。

 「この地には、諸葛孔明という臥龍(眠っている龍)が居ます。ぜひともお会いになるべきです」

 これに対し、連れてきてくれという劉備。それもそのはず、すでに天下にある程度、名が轟いていた47歳の劉備に対して、無名ともいえる諸葛亮は27歳。親子ほどの年齢の差もあるのですから、当時の社会常識としても諸葛亮の方から出向くのが一般的でしょう。

 しかし、徐庶は「呼びつけるような人物ではありません。ぜひ、ご自身から出向いていってください」と答えます。

 劉備は、言われるように自ら襄陽郊外の隆中(りゅうちゅう)に出向いて行きます。進むべき道を見失っていた劉備は藁にも縋る思いで出向いていったのかもしれません。

 三国志演義によれば、出向いていったにもかかわらず2度までもが不在。3度目は在宅していたものの、昼寝の最中であったため、劉備は長い時間外で立ったまま諸葛亮が起きるのを待ち、ようやく面会が叶ったとされています。

 これが三顧の礼です。そうして、劉備は「私は、漢王朝の再興に努力をしてまいりましたが、敗戦を重ね、今に至っております。今後、どうすればよいのかおしえていただけませんでしょうか」と自分の考えを伝えます。

 それに対して、諸葛亮の答えは「今、百万の大軍を持つ曹操と対決してはいけません。一方、孫権は江東に揺るぎない地盤を固めております。しかし、荊州と益州の支配者は無能です。孫権と手を結び、荊州と益州を手に入れ国力を充実させるのがいいでしょう。そうすれば、曹操、孫権とあなたによる天下三分も叶うことでしょう。」と語ります。

 これが後世に「天下三分の計」と称される戦略方針です。

 漢帝国の再興には、まず天下を3つに分かち大陸統一を目指すという構想に劉備は大きな感銘を受けます。また、諸葛亮も劉備の誠意に打たれ劉備陣営に加わることになります。

 劉備は、諸葛亮を陣営に加えると厚遇でもてなしますが、関羽と張飛は不満を唱えます。旗揚げ当初から付き添ってきた両名ですからね。これに劉備は、「私に孔明が必要なのは、魚に水が必要なようなものだ」といって二人をなだめました。これが「
水魚の交わり」という故事成語にもなっている言葉です。

 

三国志を極める!

「三国志きらめく偶像」
高島俊男さんが3年間かけて書き上げた「三国志人物縦横談」の文庫版。
正史と演義とを比較しながら三国志の登場人物を深く掘り下げている。

孫策の死
 


新野・樊城の戦い