三国志・官渡の戦い
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官渡の戦いとは、当時、中原を手に入れていた曹操と河北を治めていた袁紹とが中華のど真ん中の覇者を決めるべく争った重要な戦いです。劉備も袁紹側としてこの官渡の戦いに参戦しています。
では、この官渡の戦いについて少し詳しく見ていってみましょう。
延津・陽武の戦い
白馬の戦いにて曹操軍に敗れた袁紹。しかし、まだまだ主力部隊は健全でした。そして、200年の8月。ついに両軍は官渡にて再び激突することになります。
袁紹軍は黄河を渡り、陽武に進出すると官渡城に布陣する曹操軍と対峙します。
官渡城に引きこもって抵抗を続ける曹操軍。これに袁紹は防壁よりも高いやぐらを組んでその上から矢の雨を降らせます。
曹操軍は、これに対抗するため発石車を用意。城内から石を飛ばして、やぐらを壊します。
これに対して袁紹軍。今度は、地下道を掘って地下から曹操軍に迫っていきます。
曹操軍は、城内に深い空堀を巡らせ、侵入してきた敵兵を討ちます。
こうした一進一退の攻防が続き、やがて曹操軍の食料が底をついていきました。
そんな中、曹操の本拠地である許都南方にて劉辟が反乱を起こします。好機と見た袁紹は劉備を送り込み許都の背後を衝かせようとしますが、曹操の弟、曹仁に撃退されてしまいます。
しかし、兵糧不足は曹操軍にとって死活問題。一時は、曹操も弱気になり、許都に戻ろうとも考えますが、許都を守っている荀彧に手紙で諫められ思いとどまりました。
荀彧の言葉
「公、至弱をもって至強に当たる。もし制すること能わずんば、必ず乗ずるところとなる。これ天下の大機なり」
(殿は、弱小兵をもって最強の軍と戦っております。もし、ここで叩かなければ必ず総崩れとなるでしょう。今こそ天下分け目の時ですぞ!)
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烏巣の戦い
こうして、両軍一歩も引かず長期化していく戦闘。両軍ともにいよいよ兵糧が底を尽きかけます。こうなってくると大軍であるうえ、兵糧の輸送路が長い袁紹軍がちょっと不利・・・。
そんな中、曹操軍に好機が訪れます。袁紹軍の参謀、許攸が曹操軍に投降してきたのです。いろいろな策を進言しても袁紹は聞いてもらえぬと見切りをつけたのでした。
そして、許攸は袁紹軍の兵糧輸送計画を漏らすのです。
烏巣の兵糧庫は防御も薄いので簡単に襲うことができる。ここを焼き払ってしまえば、もはや袁紹は3日ももたぬでしょう・・・。
曹操は、自ら5000人の精鋭を引き連れ袁紹軍の旗をかざして偽装し烏巣に向かい兵糧庫を燃やしてしまいます。そして、淳于瓊をはじめとする袁紹の武将ほか、1000人あまりを殺害しました。
袁紹は、これに驚くが、逆に曹操不在の本陣を狙え!と武将2人に命じ攻めさせます。しかし、淳于瓊らが殺害された知らせが届くと袁紹が彼らを見殺しにしたことに愛想をつかし、彼らも投降してしまうのでした。
こうして、袁紹軍は総崩れとなり、袁紹と長男の袁譚は自軍を捨てて逃げるしかありませんでした。
<白馬の戦い
>孫策の死
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