歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記三国志>董卓

董卓


 後漢末期の宮廷では、次の皇帝の座を巡り激しい争いが起こっていました。まだ幼き皇子、
辯皇子協皇子。己の権力拡大のため、周りの者たちは対立を繰り返します。

 そんな中、辯皇子側につく
何進(かしん)は協皇子側につく宦官らを討ち取らせようと董卓ら地方の軍閥を呼び寄せました。

 何進に呼ばれ都に向かっている董卓。しかし、董卓が向かっている最中に何進は宦官らによって殺されてしまいます。それを知った袁紹という部将は宦官らに反撃。宮中の宦官らを片っ端から殺します。その数2000人とまでいわれているほどです。

 そんな中、辯皇子と協皇子は、なんとか逃げ出した宦官の人質として都を出ます。しかし、その宦官も追手に迫られ自害。二人の皇子は、お互いを励まし合い夜道を歩き、やがて民家に保護されますが、その民家の主が都に彼らを送っている途中に遭遇したのが都に向かう董卓です。

 董卓は、混乱の中、すでに少帝として皇帝に選ばれていた辯皇子と弟の協皇子を連れ都に入城します。

 しかし、董卓の兵はわずか3000ほど。力で政権を奪い取るには少々心もとないということで何進の弟の何苗を殺害し、何進、何苗の兵を吸収。

 さらに董卓同様に何進によって呼び出されていた丁原という部将。彼の兵にも目をつけます。しかし、彼のもとには、あの
呂布がいました。この呂布の活躍により、董卓は敗北。しかし、この呂布の圧倒的な力に惚れ込み、説得すると呂布を抱き込んで丁原を殺させ、呂布と共に丁原の兵も併合させることに成功するのでした。



 三国演義によれば、丁原を殺した呂布に董卓は一日に千里を走る名馬、赤兎馬と莫大な金銀宝玉を与えたということになっています。

 そして、少帝として皇帝に辯皇子が選べれていたにもかかわらず、董卓は弟の協皇子のほうが皇帝にふさわしいと考え、少帝を廃位。わずか10歳の協皇子を皇帝として即位させます。

 この新たな皇帝こそが後漢王朝最後の皇帝、
献帝(けんてい)です。

 そして、董卓は兄の辯皇子と母、何太后を殺害。相国という皇帝を補佐し政務全般をつかさどる位(独裁を阻止するために廃止されていた)に自身を置きます。そして、武器や貴重な宝を自分の物のように扱い、皇帝に会う時も刀を差したままだったりとまるで皇帝になったかのような態度です。

 そんな董卓に怒りを覚えるものの少なくはありませんでした。

 しかし、董卓の恐怖政治では、彼に物申したりしたら即刻牢屋に入れられるか殺害されてしまうため、言いなりになるしかありません。暗殺を企てようにも最強の武将、呂布が側にいるので勇敢に董卓に向かっていく者もいましたが呂布によって返り討ちにされてしまいます。

 こうした中で
王允(おういん)という位の高い人物が信頼できる人物だけを集め、董卓への不満をぶちまけます。

 その中にいた1人が曹操でした。曹操は董卓暗殺を志願し、王允は曹操に見事な宝刀を渡し、暗殺に役立ててほしいと伝えます。

 王允から託された宝刀で董卓を暗殺しようと実行に移した曹操。しかし、自らの姿が鏡に映し出されてしまい失敗。曹操は、とっさの機転で宝刀を董卓への献上品であると嘘をつき渡すとその足で郷土に逃げていきました。

 
董卓の生涯

 董卓の字は仲頴(ちゅうえい)。生まれは隴西郡といわれています。董卓といえば、ブクブクと太ったイメージがある人も多いでしょうが、若いころは武芸に秀でており、弓をつかわせれば左右に弓袋をつけ、馬を走らせながら左右の的を見事に撃ち抜くことができたといいます。

 董卓は、姜族や胡族らの反乱が頻発した時に役人として採用され、その反乱鎮圧で名を上げていきますが、黄巾賊との戦いでは、失敗し司令の職を解かれました。

 しかし、再び姜族や胡族が反乱を起こすと武功を上げ再び前将軍に返り咲きます。

 そして、何進に呼び出され董卓が都に向かうわけです。彼が洛陽にて権力を握ってからは恐怖政治が始まります。三国志によれば、董卓は酒宴の席で董卓反乱軍の兵士らの舌を抜き、目をくりぬき、手足を斬り、大鍋で煮たと書かれています。また、村祭りを襲撃すると賊を滅ぼしたと宣伝し。もってきた1000以上の頭を焼き尽くしたともいわれています。

 そんな性格ですので当然、他方からの反感をかうこととなり、最後は呂布の裏切りにあい殺されてしまうわけですが、三国志演義では、暴君として描かれている董卓。しかし、三国志正史では、違った一面も描かれています。重要なポストには名士をつけ、自身の親愛する者は高い位ではなく将校とするだけであったと人材登用には冷静な判断に努めていたようです。


後漢末期の宮廷の混乱


水関の戦い・虎牢関の戦い