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後漢末期の宮廷の混乱


 189年4月、後漢の霊帝が病気となります。そうなってくると次の皇帝を決めておかなければならばい訳ですが、何皇后の生んだ
辯(べん)皇子と王美人が生んだ協(きょう)皇子、どちらを次の皇帝とするかで激しい争いが起こります。

 と、いっても本人たちは、まだ幼い為に蚊帳の外。争っているのは、彼らに取り巻く連中ばかりです・・・。

 霊帝は、兄である辯皇子よりも弟の協皇子を次の皇帝にしたいと考えていたようで、「だったら、辯皇子のバックにいる大将軍、
何進(かしん)を殺してしまいましょう」と宦官の1人が皇帝の助言します。

 何進というのは、辯皇子の叔父にあたる人物です。

 ですが、この何進暗殺計画は途中で霊帝が崩御していまい計画は中止。代わりに何進は
袁紹(えんしょう)に兵を与えて、官中に入らせ強引に辯皇子を皇帝にしてしまいました。

 そして、それまで協皇子を押していた者たちを殺してしまいます。

 次に面倒なのが宦官らです。宦官というのは、皇后らの世話をする人たちですが、霊帝の母である董太后という人物が協皇子を養育した人物でした。その董太后のバックにいたのが宦官らです。

 つまり、宦官らも協皇子側。辯皇子側につく何進にとっては邪魔な人物たちだったわけですね。

 何進は、彼らも抹殺してしまおうと考え、
董卓ら地方の軍閥を集めます。

 しかし、これを察知した張譲(ちょうじょう)と段珪(だんけい)という十常侍(皇帝の近くにおり詔令を伝達する役割、宦官の中でも勢力を振るっていたグループ)。彼らは、何進を呼び寄せ殺してしまいます。

 これにブチ切れのが袁紹。なんと宦官らを次々に殺していき、その数2000人・・・。官中には死体の山が積まれます。

 なんとか生き延びた十字侍の段珪は「これはヤバい!」ってことで逃げるわけですが、その時に辯皇子(少帝)と協皇子(陳留王)を人質として連れていきました。しかし、結局は追手が迫る中、観念した段珪は自殺してしまいます。

 残された少帝と陳留王。夜道を二人で歩き、民家で保護され、帰路につく途中に彼らを発見したのが董卓でした。

後漢末期の帝位をめぐる争い
辯皇子 対立 協皇子
何皇后 董太后
何進 王美人
袁紹 宦官 

黄巾の乱


董卓