フィギュア17評 その1 

9話から12話を絶賛してみる。

注)最終回以外のネタバレが含まれます。

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実のところこの作品、当初の印象は芳しくなかった。
それは、まず作品の枠組み、方向性を最初に錯誤して見始めてしまったことが原因ではないかと思う。

地球人の少女つばさが異星のテクノロジーによって生まれたヒカルと融合することで変身、マギュアという異星生物と戦うというのが基本ストーリー。
要はウルトラマンのパターンと同じSFアクションヒーローの枠組みで作られているといっていいだろう。

「日常<事件発生(日常の崩壊)<変身&バトル<日常の回復」という起承転結を30分弱のドラマ一話ごとに押し込め、「変身&バトル」が物語のカタルシスとして作用するのが「アクションヒーローモノ」のお約束的作劇だろう。しかし「フィギュア17」はそうはなっていない。

つばさとヒカルはは淡々と日常を過ごす中、マギュアを発見したD.Dに呼び出され、それを片付けるだけで、マギュアがつばさたちの日常を脅かすことなく、D.Dのマギュア掃討の物語とつばさ&ヒカルの物語は関係しあっても交わることなく別々に進行している。「マギュアからつばさが日常を守る」というパターンをとっていない。
つまり、主人公、あるいはその周辺の日常が怪物によって崩壊させられることがまったくない為、戦闘が起承転結の「転」「結」として機能せず物語にカタルシスを与える役割を担っていない。
戦闘にカタルシスがないということは、アクションヒーローものとして犯してはならない致命的なミスである。
よって「フィギュア17」はアクションヒーロー作品としては見事なまでの失敗作だ。

しかし戦闘に関しては「退屈」の一言に尽きる一方で、つばさとヒカル、その二人をを取り巻く人物の生活描写、小林七郎美術監督のもとに作られた北海道の風景は、じっくり丁寧に描かれ「アクションモノ」とは思えない魅力を持ちえている。有り体に言ってしまえば、「北海道小学生日記」を堪能する以外、前半はこれといった楽しみを見出せない。
この作品のドラマが動き出すのは、中盤の「学芸会」のエピソードからで、つばさとヒカルは時が来れば離々れにならねばならないことが示唆される。いずれ訪れる「別れ」を意識し始めることで、つばさとヒカル、お互いの心理的距離の変化が、ドラマとしてのダイナミズムとして立ち現れる。
丹念な日常描写を積み重ねていく上で描かれるつばさの微妙な内面の変化、ヒカルとつばさの関係性を追うという一点に物語は絞られている。
マギュア、その他設定は「ヒカル」という存在を成り立たせる為の装置に過ぎず、つばさとヒカル、お互いが精神的にどんな存在であるのか?ということがドラマとして最も重要なことで、あることに気づきさえすれば、この作品の確実に面白い。

「フィギュア17」をアクションヒーローモノとして見てはいけない。つまりはそういうことだ。

だが、それでもこの作品を楽しむ為には超えなければならないハードルが多いところが困りどころだ。

つばさを中心としてクラスメートや家族などの人間関係の図式がある程度見えてくるまで第4話までかかり、その間の事件らしい事件の起こらない展開は、どうしても退屈に見えてしまう。ゆったりとした間、テンポを基本に日常を描いていくが、ワンカットの長さに比してキャラクターの芝居が乏しいために、見ていて少し冗長に感じてしまうという欠点があるのではないかと思う。わざとらしい演技や芝居をつけないのはこの作品の方向性として間違っているわけではないが、あまりに抑制が効きすぎて、ドラマが動かない前半は、見ていて集中力がとぎれてしまう。
前半の「退屈」な展開を乗り越えて、つばさとヒカルの関係性のドラマがしだいに面白くなってくると、今度はそのドラマと無関係に発生するマギュアとの戦闘が邪魔に感じられてくる。
「ええい!マギュアはいいっ、つばさを映せ」と思わず画面にむかって言いたくなる。


正直私自身、8話まで見た段階でのこの作品に対する評価は割と好きなタイプの作品ではあったが「ちょっと日常描写が冴えた面白味に欠ける凡庸な作品」程度だった。が、それも9話のラストでひっくり返ってしまった。この作品が本当に面白いのは9話のラストからで、それまでは全てその前フリだったといって差し支えないと断言できる。


「9話」のラスト「つばさと仲良くなった男の子・翔の唐突な死」という事件は、単につばさのクラスメートの死自体が物語としてショッキングだったということより、その「死」が今まで積み重ねられた確固とした日常の存在感の上ではじめて成り立つ「重さ」をもち、まったく予期せぬ形でその日常が転倒してしまったというところにインパクトがあった。実際先の展開を知らずに、見ていたこっちとしては、翔と甘酸っぱくなってるつばさをニタニタと喜びつつ、のけ者にされたヒカルはこれからどうなるんじゃろか?と想像を巡らしていただけに、その「やられた!」感はかなり強力だった。この瞬間私の中で「凡庸な作品」が一段階上に「化けた」為に、ちょっと興奮してしまった。


8話までのつばさとヒカルの関係の物語的構造が、消極的な性格のキャラ(つばさ)が積極的な性格のキャラ(ヒカル)との関係を通して、積極性を獲得して自立していくという王道的なモノで、つばさが翔の誘いで気球を見にいき、ヒカルにはそのことを内緒にしてしまうという段階に至って、つばさの自立はほぼ完了に近づいていた。それが翔の死によって、一気に覆され、つばさの自立の道が一旦閉ざされてしまう。つばさの自立を描くというテーマは一貫して変わらないが、一度自立に向かったキャラに新たな障害をぶつけ、今まで積み上げたものを後退させてしまうという展開は、それまでの「まったり」展開からは想像もつかない。

10話から12話の緊張感は絶大だ。
10話の「ヒカルちゃんは人間じゃない!」と言い放ってしまうつばさとその言葉を優しく受け止めるヒカルとの間に流れる空気の重さ。翔を失ったことで、ヒカルと離れることを異常に恐れるつばさ。スケートをしている場面は特に秀逸で、つばさがうまく滑れずヒカルに手を引かれている様は、つばさとヒカルの関係性を示し、つばさが以前にもましてヒカルに依存してしまっているいる状態が巧みに強調されている。その後のヒカルがその事に感づき避けようとし、それに戸惑うつばさという一連の流れは胸に迫る。これは、台詞や音楽で盛り上げて描ける類の描写ではないだろう。それもこれも9話かけて積み上げてきたキャラクターの描写あってこそなのだ。
抑制された感情描写とその感情が爆発する様をあくまで絵の説得力、映像の積み重ねで見せ、依存と自立というテーマをここまで徹底的に追い込んで描いた作品は、中々見当たらないのではないだろうか。

以下、最終回については次回。

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