■はじめに
TV放映開始からおよそ1年3ヶ月ほど周回遅れではありますが、アニマックスの第一期の全話一挙放映を期に、この一ヶ月ほど第二期TVシリーズであるA's、CDドラマ、メガミマガジン他の外伝コミック、小説ととりあえずオフィシャルで発表されている関係作品をものすごい勢いで制覇して参りました。
この作品にここまで傾倒してしまったことに対して、自分自身でも驚いている次第です。
「なぜこんなに『リリカルなのは』という作品が私の心を捕えたのか」というのは考えるに、単純に作品としてよく出来てたし面白かったからというのもありますが、それはどんな作品であっても必要条件というだけであって、それ以上の理由は別にあります。
それはものすごく端的にいってしまえば
「フェイト×なのはの百合カップリング妄想がとまんねーよ、オイ」
というオタク的にものすごく根源的で魂の命ずるところ逆らいようのないものなのであります。
なぜそんなダメ思考回路をこの作品が誘発してしまったのか、それがだいたいつかめてきたので、その辺を中心に、「リリカルなのは」第一期のストーリーを分析しつつ、書きとめてみました。
なおここに提示された文章は至好回路雑記に2006/2/7〜3/14にかけて、記載したものを再編したものです。
■目次
「魔法少女リリカルなのは」各話分析
第01話/第02話/第03話/第04話
第05話/第06話/第07話/第08話
第09話/第10話/第11話/第12話
第13話
まとめ
「魔法少女リリカルなのは」の作品構造とその影響について
■第1話「それは不思議な出会いなの?」(公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:一分寸僚安/演出:草川啓造/作画監督:奥田泰弘
非常にオーソドックスな第1話。
少女の日常から異世界の住人との邂逅、魔法の力の授受、変身。
日常から非日常へ、変身シーンの高揚感、ここにつながるシナリオ・演出はお見事。
過去に作られたいわゆる「魔法少女モノ」のテンプレをなぞっていて、そこに新鮮味というものはないが、逆に魔法少女モノをやるぞ!という気合が感じられて、それ系好きの人間の心をがっちり捕まえるつくりになっている。
いわゆる美少女ゲーム系原作ものが出自ではあるが、アニメ的なお約束で作られた「見慣れたタイプの作品」であることで、そこになじまない年の行った自分みたいな人間には非常に敷居が低く作品に入り易かった。
・なのはがバスに乗るとこでアリサがすずかとの間に席をあけて上げるカットがある。さりげないけど、こういう描写の気の使い方がいい。
・作画は恐ろしく気合が入っているが、カットごとに絵柄が変わるのがご愛嬌。食事シーンの枚数のかけ方はすごすぎて作品全体から浮いてしまっている気がしないでもない。
■第2話「魔法の呪文はリリカルなの?」(公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出:秋田谷典昭/作画監督:田中千幸
ジュエルシード集めという当面の目的&設定説明が中心で、それ以外は特に物語りも大きく動かない。
シリーズの前半は基本的になのはの日常や周囲の家族、アリサ・すずかとの友人関係を主体になのはのキャラをいかに魅力的に描くかに注力されているといったところか。
ところでこの作品、放映開始当初は「カードキャプターさくら」と比較されることが多かったらしい。
確かに言われてみれば、初期設定は酷似していてるといえるが、OPで既にライバルキャラと思しきフェイトの登場が示唆されていたため自分は特に気にならなかった。
■第3話「街は危険でいっぱいなの?」(公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:守田芸成/作画監督:高梨光/総作画監督:奥田泰弘
レイジングハート遠距離モード初変形回。
ゴリゴリと音を立て変形し、技の発動後は排気する雄々しさあふれる魔法の杖。
魔法の杖といえば魔法少女ものではおなじみのアイテムだが、音声を発し意思を持って術者をサポートすることで単なる道具ではなく、魔導師のパートナーとして重要な役割を担うインテリジェントデバイスは、この作品を他の魔法少女モノと一線を画す一要素となっている。
ここでひとつ重要なのはインテリジェントデバイス自体が魔力を持っているわけではなく、それを使用する魔法使いが元々持っている魔法の資質、魔力を発現・行使するための手助けをしている点にある。
魔法少女モノの多くは、生まれつき魔法の国の女の子で魔法が使える魔女っ子であるか、普通の女の子が魔力をもったアイテムを与えられることで魔法少女になるかに大別され、多くの場合、使命が終われば魔法の国へ帰還するか、魔法を失効することになる。
ところがなのはは、たまたま魔法が発達しなかった世界に魔力を持って生まれた魔女っ子で、運命的に魔法を行使する世界の住人と出会い魔法に目覚めたナチュラルボーン魔女っ子にして普通の女の子ということになる。
この場合、特にバトル系のヒロインものだと、その力は転生輪廻であるとか世界の運命を賭けて戦う使命を課せられるとか因縁的運命的設定で物語が駆動していくが、「リリカルなのは」はそういった構造を一切もたない。
第1話でなのはがすずか達と将来について話すシーンで、なのはが自分には得意な事がないと自分を評価しているが、魔法自体が、実はなのはの持っていた隠れた「才能」だったという位置付けに持っていっているのも面白い。
この設定があることで、事件を終えても、魔法を失効せず、魔法を持ったままの日常が続いていくというエンディングへとつながっていくのも、魔法少女モノとしては型破りだったといっていいだろう。
この回で気の緩みから失敗を犯したなのはは、ユーノの手助けとしてはじめたジュエルシード集めを、はじめた以上、責任を持って真剣に取り組むことを決意する。
面白いのは、何かを守りたいとか助けたいということより、自分から引き受けたことだから自分の問題としてけじめを持とうとしているところ。
この生真面目さ、責任感の強さはとても小学三年生とは思えない。
この作品で出てくる子供は総じて子供らしくはないのだけど。
■第4話 「ライバル!?もうひとりの魔法少女なの!」(公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ・演出:阿部雅司/作画監督:大田和寛
真打フェイト・テスタロッサ登場回。
金髪で黒い衣装、常に高いところに立って相手を見下す様は、正に悪役の風格。
巨大化したいたいけなにゃんこにいきなり攻撃を加え、なるほど、こいつがこれからジュエルシード集めの妨害をしてくる「敵役」なのね、っと思わせる。
しかし、そんな攻防の後、気を反らしたなのはにフェイトが最後の一撃を加えるとき小さく「こめんね」とつぶやく。
戦いに負けたなのはのフェイトに対する「悲しい目」という印象により、フェイトが感情のない冷酷な性格とは違うのではないかと思わせ、さらにこの回のラストで母親の存在が彼女のジュエルシード集めに関係し、ライバルキャラではあるが単純な悪役ではないことが匂わされる。
一旦ミスリードすることでフェイトに抱えている事情があることを際立立たせているのが上手い。
そしてこの回より、フェイトという謎を秘めたキャラによって物語が大きく転換していくことが予感させられる。
とはいうもののこの先「戦って事件解決、お友達」という黄金パターンになることは容易に類推出来てしまうわけだけど。
ただその期待を決して裏切らず、如何に説得力をもって見せていくかというのは案外難しいもので、その見せかたが、実に鮮やかだったところが「なのは」という作品のえらいところだったと思う。
■第5話 「ここは湯のまち、海鳴温泉なの!」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出・作画監督:斉藤良成
フェイト「話し合うだけじゃ、言葉だけじゃきっと何も変わらない。伝わらない!」
温泉サービス回なのに顔が似てねー、というのはおいといて、フェイトVSなのは第二戦。
話し合いでどうにかできないかと問うなのはに、それを拒絶するフェイト。
互いのジュエルシードを賭けバトルを繰り広げる。
主人がピンチになりジュエルシードを差し出してしまうレイジングハート、それを受け取りそれ以上の攻撃をしないフェイト。
話し合いに応じない一方で、フェイトは自分なりのルールと倫理で相手に無闇に危害を加えない。
ここからフェイト自身も戦いを望むわけではないが、目的の為には戦わざるを得ないことを選択していることをうかがわせる。
戦うことを厭わない強い目的と意思を持ったものは、他者の言葉だけでそれを曲げられない。
これはA'sを含めて「リリカルなのは」というシリーズを通しての一つのテーゼとなっている。
ラスト、敗北したなのははフェイトに名前を聞き、自分も名乗ろうとするが、名乗らせてもらえずフェイトは去ってしまう。
すでにこの時点で最終話へ向かっての下地を整える準備が始まっている。
シリーズの構成とテーマ・物語の着地点に迷いがないことを感じさせる。
■第6話 「わかりあえない気持なの?」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:上坪涼樹/作画監督:田中千幸/総作画監督:奥田泰弘
フェイトの件で悩むなのは。アリサはなのはが悩みを打ち明けてくれないことに苛立ち怒りをぶつけてしまう。
ここで、なのはとアリサ、ずずかが友達になったきっかけが語られる。
ケンカを通して、お互い少しづつ話をするようになり、3人は親友となったというエピソードは、そのまま、この先のフェイトとなのはがこれから直面することとの対比でもあり、未来を暗示している。
なのは「アリサちゃんとすずかちゃんと初めて会った時は友達じゃなかった。話を出来なかったから、わかりあえなかったから。アリサちゃんを怒らせちゃったのも私が本当の気持ちを、思っていることをいえなかったから。」
なのは自身、親友に打ち明けられない事、時がある。
ならば他人であるフェイトが簡単に話をしてくれないのは当然だし、フェイトにもなにかいえない理由があるかもしれない。なのは自身それを実感する。
なのは「目的がある同士だからぶつかり合うのは仕方ないのかもしれない、だけど知りたいんだ・・・どうしてそんなにさびしい目をしているのか」
なぜ争うのかわからないまま戦うのはいやだから、フェイトの理由が知りたいというのが、なのはの最初の動機だった。
なのは自身争わずにすむならそれが一番だとおもっていることにかわりはない。
しかし、なのはの目的は、争いを避けることではなく、徐々に、フェイトが何を思い、なぜ戦いを選ぶのかその理由を知ること、フェイトがそれを自分に話をしてくれるにはどうすればいいのか?という一点に向かいはじめている。
なのはの「だけど、知りたいんだ」という台詞は、なのはがフェイトに向かって一歩足を踏み出すカットにかぶさる。
言葉を伝えるためにフェイトにぶつかっていくことの決意を表す秀逸なカットだ。
■第7話 「三人目の魔法使いなの!?」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ・演出:阿部雅司/作画監督:大田和寛
今まで伏せられていたフェイトの側の事情が明らかになる回。
フェイトがジュエルシードを集める理由が母親の望みをかなえるためであると同時にそれは、母親からの愛情と承認を求めてのことであることがわかる。
しかし、その母親プレシア・テスタロッサは、フェイトをムチで罰し、暖かい言葉のひとつもかけない異常さでフェイトを迎える。
フェイトがそれでも母親を疑わず、母の願いをかなえれば、元のやさしい母親に戻り、笑いかけてくれると信じている。
いささか過剰ではあるが、フェイトの「さびしい目」の理由には十分過ぎる理由である。
ポイントはフェイトがジュエルシード集めを、母親にだまされていたり、操られていたりたり、止むを得ずしているのではなく、純粋に自らの意思で、望んで母親の願いをかなえようとしていること。
それが彼女の母親への思慕から生まれる行為であり、到底報われそうに思えないことがよりいっそう痛々しさを煽る。
なのは「私が勝ったら、ただの甘ったれた子じゃないってわかってもらえたら、お話聞いてくれる?」
なのはを甘ったれといったのは6話でのアルフの言葉であるが、上記の事情を抱えるフェイトから見て、なのはという存在は、自分とは住む世界の違う、なんの関わりもない存在としてしか映らないのだろう。
そんな彼女と話をしたところで、何かが変わるとは思えず、話しをする意味があるとはフェイトには思えない。
まだ、この時点では、フェイトにとってなのはは小さな存在でしかない。
■第8話 「それは大いなる危機なの?」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出:西山明樹彦/作画監督:高鉾誠/総作画監督:奥田泰弘
クロノ・リンディ提督・時空管理局の登場で世界観がひろがりがらっと作品の様相がかわっていく。
メルヘンかファンタジーの異世界と思われてたものが、魔法文明が高度に発達した法の支配する世界となりSFちっくに。
時空管理局の登場で、ジュエルシード=ロストロギアに関する事件はなのはが責任が負う必要のない事柄となってしまい、なのはがこの件から手を引いても、誰かから咎められるようなことではなくなってしまった。
むしろ本来は関わるべきではない世界に首をつっこんでしまたわけだから、降りてしまった方がよかったのかもしれない。
それでも、なのはジュエルシード集めに協力することを申し出る。
すでにこの時点でなのはの目的は、「フェイト」という女の子とかかわりを持ち、フェイトから話を聞きたいと望んだ自らの意思を中途半端にしたくない、という個人的なものに変化していて、ジュエルシード集めはその為の表向きな理由でしかなくなっている。
そしてユーノ自身もそれを納得して、なのはの意思を尊重しようという方向に動いている。
・なのはがユーノの人間バージョンの姿をはじめて見て戸惑うところは、ガンガンとシリアスな方に物語が向かっていく中で、息抜き的に和むシーンだ。
・他にもクロノとエイミィとやりとりや、リンディ提督が緑茶に角砂糖を落とすのを見て引くなのはとかもいい按配で配置されている。
■第9話 「決戦は海の上でなの」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:上坪涼樹/作画監督:友岡新平
海に眠るジュエルシードに魔力を叩き込み無理やり覚醒させようとするフェイト。フェイトの自滅を待つようクロノに言われるが、それを無視して、フェイトを助けに飛び出るなのは。
なのははジュエルシード封印のためフェイトに魔力を分け与え、フェイトも戸惑いながら、なのはの協力を受け入れ、ジュエルシードを封印する。
リンディ提督との約束を破ってフェイトを助けるために飛び出したなのはは、そうまでしてフェイトを助けようとする自分の思いについて自問しながら答えにたどり着く。
ああそうだ、やっとわかった。私、この子と分け合いたいんだ・・・
悲しい気持ちや、さびしい気持ちを抱えている子に必要なものは、優しくされたり、だいじょうぶ?と言葉をかけてもらうことではなく、いっしょにその気持ちを分け合うことの出来る存在がそばにいてくれること。
今フェイトに必要なもの、なのはがフェイトに対してできること、さびしい目をしたフェイトを放って置けなかったその理由、その答えを見つけたたなのはは、「告白」する。
「友達になりたいんだ」
フェイトの事情をまだ知らないなのはのこの思いは、少なくとも、この時点では、まだ一方通行の「片思い」でしかないかもしれない。
しかし、何度となくぶつかり、今また自分を助けてくれた相手からの「友達になりたい」という「言葉」を伝えられたフェイトのなかで、目の前の白い防護服を着た少女の存在は、初めて出会ったときと違うものとして映ったに違いない。
・結界内に転送されたなのはが空中落下しながら変身の呪文を唱えるところのカッコよさ、デバインバスターフルパワーの魔法エフェクト描写の派手さなど演出も過剰になっていくが、これがドラマのテンションが高まっていくのと歩調を合わせいて、見ていて非常に気持ちい。
・今回、ユーノとなのはのラブ展開とか、クロノとユーノがなのはのをめぐってという展開を匂わせるシーンがいくつかあるんだけど、結局その後一向にそういう方向に向かわない。
いや結果的にそれはなくて正解なのだが。
■第10話 「それぞれの胸の誓いなの」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出・作画監督:中山岳洋/総作画監督:奥田泰弘
時空管理局の追跡と、プレシアに抗議し追放されたアルフから事情を聞くことで、フェイトのおかれた状況を知ることになるなのは。
フェイト「だけど、それでも私はあの人の娘だから」
なのは「ただ捨てればいいてわけじゃないよね、逃げればいいって分けじゃもっとない。
きっかけは、きっとジュエルシード。だから賭けよう、お互いの持ってる全部のジュエルシードを」
アルフが自分を心配してくれること、なのはが自分に助けの手を差し伸べようとしていること、それを理解した上で、それでも彼女は、まだジュエルシードを収集すれば元の優しい母親に戻るという希望を捨てきれずにいる。
フェイト自身も母親の異常さには気付いているし法に背いていることも知っている、それでも、彼女にとって自分がプレシアの娘であることは避けることの出来ない現実であり、母親の望みをかなえようとするのもまたフェイト自身の意思で選んだ道である以上、簡単に降りられないし、降りるわけにはいかない。
なのはがジュエルシード集めを自分のこととして責任を全うすることを選んだように、フェイトも根が生真面目で責任感と意志が強いのだ。
フェイトを止める為には、フェイトと友達になりたいといったなのはの思いの強さが、フェイトの意思と目的に負けないことを、なのはがフェイトの「力」になれることを、言葉だけでは伝わらない「強さ」を示さなければならない。
その為になのははフェイトに戦いを挑む。
■第11話 「「思い出は時の彼方なの」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:田所修/演出:草川啓造/作画監督:田中千幸/総作画監督:奥田泰弘
フェイトVSなのは最後の決戦。
フェイト「はじめて会った時は魔力が強いだけの素人だったのに、もう違う・・・速くて、強い。」
フェイト「直撃!?でも耐え切る、あの子だって耐えたんだから」
フォトンランサーを耐えしのいだなのはから逆襲で受けるデバインバスターを今度はフェイトが耐えてみせる。しかしさらに大技・スターライトブレーカーを叩き込まれてしまう。
フェイトは好敵手として認めたなのはに、完全な敗北を喫する。
母親との関係がすべてであったフェイトにとって、この戦いは、「自分に挑んできた好敵手」という存在との新しい関係であり、自分の信念と全力を賭けて戦ったその相手が、自分より強い存在であることを認め、受け入れる為の、「賭け」であり「儀式」であったかもしれない。
いずれにしろ、なのはとフェイトは戦いを通してすでにお互い「無関係」な存在ではないのだ。
ここの戦闘シーンは実に面白い。
フェイトのアップからカメラがフェイトをなめつつ、引きながらぐるっと後ろ回り込んで、その遠く先にいるなのはと対峙するカットは秀逸。
カメラ動かしまくりの作画演出のうまさもさることながら、小技を応酬しバインドで相手を動け無くして大技を叩き込むなど、派手なだけでなく攻防の緊張感もあってとにかく見ごたえがある。
■第12話 「宿命が閉じるときなの」 (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出・メカニック作画監督:斉藤良成/作画監督:金子誠 水上ろんど/エフェクト作画監督:友岡新平/総作画監督:奥田泰弘
敗北し、囚われたフェイトは、母、プレシア・テスタロッサが実の母親ではなく、自分が死んだ娘から作られた擬似生命の失敗作であることを告げられ、自失する。
ショックから目をさましたフェイトは、自分が如何に母親にしがみついていたかを思い知る
「何度もぶつかった真っ白な服の女の子、初めて私と対等に、まっすぐ向き合ってくれたあのこ。何度も出会って戦って、何度も私の名前を呼んでくれた、何度も。何度も・・・」
「生きていたいと思ったのは母さんに認めてもらいたいからだった、それ以外に生きる意味なんかないと思っていた、それができなきゃ生きていけないんだと思ってた」
母親の存在がすべてだと思っていたフェイトは、自分を心配してくれるアルフの存在、そして何度も戦ったなのはの存在を思い出す。
そしてフェイトなのはの言葉を口にする。
「『捨てればいいってわけじゃない、逃げればいいってわけじゃない』」
「私達のすべてはまだはじまってもいない、だから本当の自分をはじめるために今までの自分をおわらせよう」
決意を固めたフェイトは、突入したなのはを追い、プレシアの元に向かう。
フェイトは自分がプレシアの本当の娘ではないことを知った上で、それでもプレシアが自分にとって母であることに違いなくそれを背負った上で、「フェイト・テスタロッサ」という存在をプレシアが受け入れてくれることに望みを賭ける。
プレシア「いまさらあなたを娘と思えというの?」
フェイト「あなたがそれを望むなら。それを望むなら、私は世界中の誰からも、どんな出来事からもあなたを守る。私があなたの娘だからじゃない。あなたが私の母さんだから。」
フェイトは母親からの愛情を欲していた、しかし、一方的に、娘だから愛を求めていたわけではなく、愛されるために母を愛そうとした。
実の娘ではないという事実を本人に突きつけられてなお、娘を失った母を哀れみ、プレシアが望むならプレシアを母として愛そうと誓う。
自分の出自を呪うことなく、それを受け入れ、自分を苦しめた母の支えとならんとするフェイト。
強く愛を欲しながら、彼女はどこまでも人を愛そうとする強さをもっているのだ。
しかし、プレシアはアリシアだけを娘として愛し、もう一人の娘が自分を愛してくれようとしていることに気付かない。
フェイトの母親への愛は拒絶され、永遠の片思いとなって奈落へと消えてしまう。
補足
プレシアが娘を失った経緯、娘の再生に賭けた狂気、娘として生み出したはずのフェイトがアリシアと似て異なる存在であることに気付き、フェイトの存在を忌み嫌ってしまったことの経緯などが、CDドラマおよび小説で触れられている。
アニメ版ではプレシアの内面に踏み込む描写がほとんどないので、プレシアがフェイトを拒絶する理由が見えないのは難点ではあるが、それをわかった上でみると、プレシア自身も哀れに映る。
■第13話 なまえをよんで (公式あらすじ)
脚本:都築真紀/絵コンテ:こでらかつゆき/演出:上坪涼樹/作画監督:奥田泰弘
奈落へ落ちようとするプレシアにフェイトは手を差し出すが、プレシアはその手を取らず、アリシアの亡骸とともに落ちていく。
そこになのはが現れ今度はなのはがフェイトに手を差し出し、フェイトはその手を握る。
それはフェイトが母を永遠に失う代わりに、なのはという友達を手に入れることを意味していた。
そして事件が終わり、フェイトの処遇が決まった後、フェイトはなのはとの束の間の再会を許され、フェイトはなのはの「告白」にたいする返事をする。
フェイト「来てもらったのは、返事をする為、君が言ってくれたことば、友達になりたいって
私にできるなら、私でいいならって。だけど私どうしていいかわからない。だから教えてほしいんだ、どうしたら友達になれるか」
なのは「簡単だよ、友達になるのすごく簡単・・・、なまえをよんで」
「なまえをよぶ」という単純な儀式。
その簡単な、友達同士なら当たり前の行為をするために、ふたりはお互いに大きな障壁を越えねばならなかった。
それゆえに、このシンプルな儀式が、胸に迫る。
しかし、ふたりはまた離れ離れの時をすごさねばならない。
初めて名前を呼び合えたふたりの、切なく暖かな束の間の逢瀬。
けれど、この逢瀬は、出会えて、友達になれた二人の関係が、今これからはじまっていくことを告げる祝福の瞬間に他ならない。
もし、なのはがいなければ、フェイトがなのはに出会っていなかったならば、母に拒絶されたフェイトは、自分の存在に、生きることに意味を見出せただろうか?
なのはがフェイトの名を呼ぶから、なのはの友達として、自分がいまここにいる意味を見出し、フェイトがなのはの友達でありたいと願い、なのはの名前を呼ぶから、フェイトはいまここにいたいと思える。
ただ、名前をよぶという行為が、母から存在をみとめられなかったフェイトにとって、大きな意味を持つ。
このときフェイトにとってなのはは「友達」という言葉の意味を遥かに超えた「全て」といっていい存在であったに違いない。
まとめ
■「魔法少女リリカルなのは」の作品構造とその影響について
さて、全13話をなのはとフェイトの関係を中心に追ってみたが、この作品が、なのはとフェイトが友情を結ぶに至る過程が、かなりがっちりと構成されていることがわかる。
最終話の二人の逢瀬が感動的なのは、ここに至るまでの過程の積みかさねによるところが大きい。
では、13話という短い尺の中で、二人の友情に説得力をもたらしたものとは何だっただろうか。
初見時の感想で、同系統の作品として「魔法少女プリティ・サミー」をあげて、「魔法少女モノ」としての完成度の高さに言及して、賞賛したように
「リリカルなのは」の物語の骨子は、少女アニメにおける友情もののパターンを良く踏襲している。
それは、なんらかの抑圧やコンプレックスをもったり、主人公と対立していたライバルキャラが、主人公との交流や助けによって心を開き、あるいは抑圧から解放されることで主人公との友情が生まれる、というものでなのはとフェイトの関係は、それにおおよそ当てはまる。
もちろんこの王道的黄金パターンがなのはとフェイトの友情を結ぶに説得力を与えていることに間違いないが、それだけでは、まだ何か足りない。
「言葉だけじゃ何も変わらない、伝わらない」そう言ったフェイトの心を変え、ふたりを結びつけたものは、何だったか。
それはフェイトに全力で戦いを挑んでいったなのはの行為そのものに他ならない。
フェイトはなのはと何度も戦いそして敗れることで、なのはの優しさと強さを知り、なのはの「友達になりたい」という「言葉」を信頼し受け入れることができるようになった。
戦いという儀式を通して他人だった二人は、お互いを知り、強い絆で結ばれることが出来たのだ。
この構図、この関係、実は何度となく、繰り返し見てきた黄金パターンだ。
そう少年漫画、特にジャンプ系の格闘マンガにおける、互いに拳を交わした敵同士に、友情が芽生え、仲間になるという、あれだ。
拳と拳で語り合うことによって生まれる友情。
なのはとフェイトの関係、友情は、女の子同士の友情というより男の子同士のそれに近いのかもしれない。
いや少年漫画的友情といったほうがいいだろう。
(注・ほんとの少年漫画では拳を交わすだけで言葉は必要ない、というところまで突き詰められているので、「友達になりたい」という言葉による告白がある分「なのは」それでもまだ少女モノしているのだけど)
「戦ったもの同士には友情が生まれる」、これは男の子にとって理屈を超えた真実である。
故に男性の目で見て「リリカルなのは」は少年漫画の見慣れたパターンであり、バトルを通すことで生まれたなのはとフェイトの友情、絆の強さには、有無を云わせない説得力がある。
バトルヒロインものというジャンルは、現在定番化しているひとつの形式ではあるが、その多くが、日常を脅かす敵がいて、その敵と戦う仲間との友情を日常を基盤にして描くというのが主流である。
しかし「リリカルなのは」はそこからはなれ女の子同士の友情を共闘ではなく、まず互いを戦わせることで描いてしまったことに「魔法少女アニメ」としての異質さがある。
前述したように初見時では「少女アニメのお馴染みの友情モノのパターン」に目が行き過ぎて気付かなかったが、「少女アニメ的な友情の物語」と「バトル系少年漫画的な友情の構造」の両者を兼ね備えていることがわかる。
なのはとフェイトの友情物語が有する無類の強度と説得力は、この二重構造の上に成り立っていたというわけだ。
さて、ここまでは作品分析、ここからはそれをどう受け止めるか、受け止めてしまった私自身の個人的問題なのであしからず。
詳述してきたように「リリカルなのは」はフェイトとなのはの友情物語として強度を持った傑作であることはまちがいない。
しかし「リリカルなのは」を見終わった後に、猛烈にフェイトがなのはのことを友情以上の感情を抱いているんではないかとい思えてならなかった。
なのははもちろんフェイトのことを友達として好意を寄せているのだろうというのはわかるのだけれど、それに対するフェイトのなのはへの感情は、もっと激しく強いのではないかと。
自分より強くて優しい存在が、あそこまで自分に真摯に向き合ってくれたことに対する信頼。母親に愛されなかったフェイトが欲しくてたまらなかったものをなのはフェイトに与えてくれる。
そして報われなかったフェイトの母への愛は、そそぐべき新たな対象を手に入れる。
事件を通してなのははフェイトにとって親友以上の特別な存在になってしまった。
最初はなのはの片思いだったものが逆転して、より強い感情をフェイトがなのはに向けている・・・・
さあもうこうなると止まらない。
フェイトはなのはのことをなんつーかもう狙っている、そうに違いない!
という妄想に取り付かれて、もうそういう目でしかみられない!
いや、もともと百合系には親和性が高かったし、そういうのも好きだったんで、フェイト×なのはで百合ってのは、別に自然(?)に受け入れられることがらなのだけれど、ここまで強い妄想に取り付かれたことはなかった。
いったい何がそんなに妄想をかきたたせるのか?
その疑問に答えが見つからないまま、次のA'sを見て、ドラマCDを聞いて、小説を読んでとしていたわけだが、その妄想は強化される一方。
そして、小説読了後「リリカルなのは」=「少年漫画」でもあるという結論に至った段階で、それがなぜなのかわかった。
もしかして、これが「やおい」ってやつなのか?と。
女の人が、ジャンプマンガでやおい妄想する理屈、友情が友情以上の感情に転化して読み替えてしまうというのは頭でわかっていただけで、理解はできなかった。
しかしジャンプマンガの構造に女の子キャラを当てはめた「リリカルなのは」を見ることで、気付けばそれを無意識に体感してしまっていたのではないかということに戦慄した。
こ、これか、と。
かくして、「魔法少女リリカルなのは」ひとりのダメなオタクをさらにダメにしてしまったのでした。
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