昨年(2004年)11月、金沢を訪れ、前田利家、利長、利常、綱紀と続いた加賀百万石の城下町、金沢の伝統美に彩どられた、華やかな街の顔を訪ねてきました。

 伝統工芸の町金沢といわれ、加賀友禅、九谷焼、金沢箔などに代表されるように匠の美がはぐくまれてきました。この工芸技術の発展には金沢の歴史を彩った、加賀百万石の文化が深くかかわった、といわれています。

 初代藩主利家が、加賀百万石のいしずえを築いた安土桃山時代、文化の中心であったのが茶の湯でした。茶の湯の道具はその多くが工芸品であり、茶の湯が広く普及してゆくにつれ、工芸活動もさかんになり、加賀藩でも歴代藩主が、茶の湯に深い関心を持ち、高名な茶人を金沢に招き茶の湯を学んでいます。 これら茶人たちの美意識が加賀の工芸に影響をあたえ、伝統工芸の町金沢のいしずえを築いた と云われています。







 石川県の伝統工芸と云われているものは、加賀友禅、輪島塗、をはじめ和紙、牛首紬、金沢箔 加賀毛鉤、など36にもおよびます。
 その中で金沢和傘に興味をひかれ、「美しい川は流れたり」室生犀星がそう詠った、犀川のほとり千日町の、松田傘店を訪ねてきました。
  
 和傘は私が小学生だった頃まで、信州の私の家の下駄箱の横に付いていた傘入れに、何本も入っていて、子供や男達は番傘、母は蛇目傘をさして、傘に当たる雨の音を聞きながら雨のなかを歩いた記憶があります。
 
 古い路地の小さなお店が松田傘店でした。

 松田弘さんは12歳の頃から傘職人の親方であった父のもと、各工程を受け持つ弟子職人達に習い、現在では全工程を一貫生産するただ一人の和傘職人で 80歳です。和傘は藩政時代から、明治、大正、昭和、と盛んに作られてきましたが、やがて洋傘の普及で職人たちとともに姿をけしてゆき、今では松田傘店の二代目、松田弘さんが金沢ではただ一人の和傘職人です。

 仕事の手を休め、いろいろお話をしていただきました。

金沢和傘は20もの工程があり、以前は分業おこなわれていましたが、今ではすべての工程を一人で1本1本、手造りしているそううで、トータルすると1日1本が限度だそううです。
 金沢和傘は、傘の中心部に和紙を4重に張るとともに、周辺部に糸を2重3重に張り、破損しやすい部分を補強するなど、丈夫なことが特徴です、これは雨雪の多いこの地に育まれた伝統をうけています。
 和紙は「こうぞ」100lのものを使っているが、最近は入手が困難とのことです。こうして作られた和傘は手入れさえよければ、半世紀も使うことができる、丈夫さを身上としています。松田さんは「和傘は持つ人を美しく見せるための道具だよ」と笑っていました。松田傘店に吊るされた数々の和傘、飾り気のないその姿も、ひとたび開かれればまさに、百花繚乱、その鮮やかな紋様と色彩こそが、金沢和傘の真骨頂なのです。

 松田さんはさらに「和傘は、洋傘みたいに合理的じゃあないよ、でも合理的じゃあないところに和傘の美しさがあると思うんだ。なによりそこが作る喜びだよ」
 和傘の世界に入って68年松田さんの言葉は印象てきでした。
 
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