「私のはるかな旅路」 ・・・ 松山和弘
趣味で古代史の散歩道を歩いております。 散歩に同行する私の切り抜き用スクラップブックは「惑い」の古代史と名づけています。 この道のさらに迷路に迷い込ませる道です。 同好の小松さんから「私のHPを作るから5月に北海道新聞に掲載された『鳥取県の青谷上 寺地遺跡の弥生人 韓国人とDNAの一致』の記事について 松山流の感想をのべてよ」と 声をかけられ『なぜ私に?』と思いながらも承諾しました。 新聞記事だけでは心もとないので、早速鳥取県教育委員会に問い合わせたところ、ご丁寧に 資料提供いただきましたので、要点と思われる部分を抜粋しました。お読みください。 □■□■□□■□■□□■□■□□■□■□□■□■□また、ミトコンドリアDNAによる日本人のルーツ調べについて詳しい 「遺伝子・DNA 3− 日本人のルーツを探れ− 人類の設計図」(NHK出版)を引用します。医学上の調査研究も参考にしたいのでお読みください。 □■□■□□■□■□□■□■□□■□■□□■□■□ 私流に語るなら、縄文人・弥生人という教科書的呼び方は意味が薄いと考えます。文化の区別を表すにはいいのですが、文明文化は連綿としてゆくものなので、お隣の国から稲作を移入したからとしても数千年前から誰とも知れず持ち込まれ たものなのでしょうから殊更に、稲作を始めたから弥生時代と受け取られる在り方は止めていただきたい。 遺伝集団の区別でも人種置き換え説は当たりません。混血していった時点での割合は、ミトコンドリアDNAで証明されている 「本州の日本人」の6タイプだったのです。 人の流れ・交流は何千年もの期間を波状のようにそれも何度もあったでしょう。日本列島は東南アジアにぶら下がるように位置していますし、地球規模の海流である黒潮が遥か南方5000kmからでも人・物を運びます。アリューシャン列島からも北東アジア・アムール川辺りから南下した人々も居たでしょう。気候・政変・国の滅亡により新天地を求めて列島に来ました。 このような異系・雑種の集まりが、その後の日本列島人の活力になったのでしょうか。それとも顔の見えない列島人を生んだ のでしょうか。 私の日本人はるかな旅路は、ミトコンドリアDNAの研究を知り、屈折しながらもストーリーが出てきました。歴史の中には 数限りない事実や出来事が星くずのように散らばっています。あなたはどこに光をあてて 歴史の中にストーリーを組み立 てますか。 |