※キラが死ぬ話です。
※映画「死ぬまでにしたい10のこと」のパロディです。




 朝、少しだけめまいを感じた。近頃体の調子がよくなかった。そう思いながらもキラは責任ある立場についていたのでいつも通りザフトの基地に出勤して仕事をこなす。部下が新たなディスクを持ってきたのでコンピューターに入れてデータに目を通した。そして必要な情報が一部入っていないことに気が付いてキラは部下に知らせようと通信を入れるが部下は手がふさがっているのか応答しない。仕方がないのでキラは自分でそれを受け取りに行こうと席から立ち上がり扉へと向かう。しかしその途中でぐらりと視界が揺れた。胃から何かがこみ上げてきて反射的に近くの棚に掴まり吐き気をこらえる。しかし脳が思い切り左右に揺さぶられているように視界の揺れが治まらずキラの全身に冷たい汗がにじみ出てくる。手がずるりと棚から滑り、強まる吐き気に立っていられなくなってキラは地面にまっしぐらに倒れこんだ。




Five things to do before I die.




 しばらくして部屋に入ってきた部下により異変が発覚して、キラはすぐさま病院に搬送された。コーディネイターはあまり病気にかからないのでこの辺で運ばれる病院といったら研究所におまけのように付属しているこの病院しかなかった。搬送される途中で目が覚めたキラは病院に着くやいなや検査用の服に着替えさせられ、今はベッドに横たわっていた。キラの横では医師が着々と検査を進めていき何度か全身をスキャンされ血も取られる。大々的に検査をされているキラだったが、当のキラの頭の中はそんな現状など気にも留めずもっと日常的なことで埋め尽くされていた。急に倒れてしまったからモビルスーツのプログラミングを結局改良しきれなかったことを気にかけたり、今夜シンやルナマリアたちと食事をする約束になっていたが間に合うかどうかといったことを考えていた。その隣ではモニターが検査の結果をはじき出している。せわしなく動いていた担当の医師は検査結果に機械的に目をやって、そしてその目が大きく見開かれた。医師は唖然とした様子でしばらくモニターを凝視して、その顔のままちらりとキラに視線を投げる。ベッドに横たわっていたキラはまだぼんやりとのん気に天井を眺めていた。医師はもう一度モニターに視線を戻し、そして躊躇いがちにキラに声をかけた。
「少し席を外してもいいかな?」
「どうぞ」
 神妙な顔で医師はそそくさと部屋を退出していき、検査室にはキラ一人が残される。この部屋は壁紙やベッドが白いせいで全体的に白い印象を受けるが、なんてことはない普通の検査室だった。キラはただベッドに寝ている状態にすでに飽きてきていた。しかしまた少し吐き気がぶり返してきたので、ぐっと目をつぶる。疲れが溜まっているのは自覚していた。今日はシンたちに会わずに早く家に帰ろうかなどとキラが考えている間に医師が部屋へと戻ってくる。その後ろには他の医師が二人ほど付き従って入ってきた。キラが不思議そうに眺めていると、二人は軽くキラに挨拶してからキラの検査結果を示すモニターの前で立ち止まる。そして三人の医師が顔を突き合わせて何事かを小さく囁き合っていた。



 ようやく検査を終えキラが軍服を着直したところで医師がどこかの扉から顔を出してキラに声をかけてきた。部屋に入るとそこは医師個人用の落ち着いた雰囲気が漂う上品な部屋だった。真ん中には革張りのソファと白木のテーブルも設置されている。キラは医師に勧められるまま向かいのソファへと腰を下ろした。
「さて長いことかかってしまって申し訳なかったね」
「いえ、検査していただきありがとうございます」
 医師は最初の挨拶の後しばらくは何も言わずただ手に持った小型のスクリーンに目を向けていた。そしてようやく顔を上げてキラに向き直る。
「君は一人暮らしらしいが…。結果は今日じゃなくてもいつでも話せるから、どなたかご家族を呼んだ方がいいんじゃないかな?君の好きにしていいんだよ」
「僕だけで大丈夫です。家族は地球にいますし、僕はもう大人ですから」
「そうか…」
 医師はもう一度検査結果を示しているスクリーンに視線を落とした。それっきりまた何も話さなくなった医師にキラは首をかしげる。
「先生?結果はどうだったんですか?」
「ああ…」
 医師は何かを躊躇っているように口をにごしたが、しかしキラの強い視線を受けて医師はとうとう決意を固めたように咳払いしてから口を開いた。
「実は君の体を調べたところ、胃に異常な消耗が見つかった。胃だけではなく消耗は肺や腎臓にも広がっている。恐らく時を待たずに全身にその症状が現れるはずだ」
 キラの瞳が動揺したようにうっすらと揺らぎ、医師はその視線を避けるようにまたスクリーンに目を落とした。そして医師はそこに表示されている文章を淡々とした口調を装って読み上げていく。キラはまだよく分からないまま、それでも何か考えてもみなかったことが起きているのを感じて眉をひそめた。
「それはつまりどういうことですか?」
「つまり君の内臓器官が何らかの作用を起こして現在激しい消耗を起こしているということだ。このような症例は一度もないからその作用の原因は分からない」
「それは治るのですか?」
 キラは面食らった顔をして医師をじっと見つめる。医師は依然としてキラの視線を避けるようにスクリーンに目を向けたまま軽く首を振った。
「残念だが…治らないだろう。こんなことは普通のコーディネイターには起こらないんだ。だからこちらとしても何をしていいのかまったく見当が付かない。こんなことは普通ではない…普通では……」
 医師は次第に口ごもっていき、とうとう最後の言葉は発せられる前にその口内で消えていった。キラは呆然としてただひたすら医師を見つめていた。キラの思考が医師の言葉を拒絶しているのかしばらくはそれを消化できなかった。しかし段々と状況が理解できてきてキラはショックで何を言ったらいいのか分からくなる。放心して黙り込んでしまったキラに気付いて、医師はようやく顔をあげてそんなキラをいたわるように見やった。
「医者という職業についているのに君を治せなくて申し訳ない」
 キラはまだ衝撃に打たれていたがややあってぎこちなく首を振る。そして医師の瞳をなかば祈るように見つめながら呟いた。
「余命はどのぐらいですか?」
「持って1,2ヶ月だろう」
「そんなに…」
 現実味がまったく沸かなかった。医師は固い表情をして無意味に視線をさまよわせていたが、不意に小型スクリーンを机に置いて立ち上がる。
「外でコーヒーでも買ってこよう。いるかね?」
「いらないです…」
 キラはどこかに思いをはせるように小さく返事をする。その言葉で医師はまたソファにのっそりと座り直し、自分の感情をもてあますように両手の指を組み合わせた。しかしそこでふとキラは唐突に甘いものが欲しくなって医師に視線を向ける。
「キャンディーはありますか?」
「キャンディー?あ、ああ…」
 医師はポケットを探って黄色いキャンディーを取り出してキラに渡す。それを受け取ったキラはゆっくりと包装紙をはがしていき口に含んだ。ピリッとした刺激を内包した甘みが口内に広がっていく。
「これ美味しいですね…何味ですか?」
「それは…しょうが味だ」
「しょうが…もっとありますか?」
 医師は急(せ)いたようにごそごそとポケットを探るがいくら探ってもポケットにはメモの切れ端やペン、紙くずしか入っていなかった。医師は落胆しつつ空っぽの手のひらを広げてみせる。
「もうそれで最後のようだ」
「そうですか…」
 キラの目が控えめに伏せられた。それで医師の顔に思いやりをそっと秘めたような切ない表情が浮かぶ。
「今度君が来る時までに飴を用意しておこう」
 そして医師は立ち上がり近くの机から代わりとでも言うように白い紙袋を持ちだしてキラに差し出した。
「ほら、飴ではないが君に必要なものだ」
「これは…?」
「君の薬だ。根本的な処置はできないが、少しは吐き気などが抑えられるだろう。持っていくように」
「…ありがとうございます」
 キラはその紙袋を受け取って立ち上がり扉へと足を向ける。しかし医師はその背中にかぶせるように声をかけた。
「薬は一週間分しか出していないから一週間後にまた来るように」
 キラは扉の前で立ち止まって唐突に医師を振り向いた。その瞳は揺らぎなど一切なくしっかりとしていて、医師はその強いまなざしに一瞬息を呑む。二人は顔を合わせたまましばらく無言で部屋に立ち尽くしていた。大きく開いた窓から気持ちのよい風が入り込んできてキラの白い軍服の裾が風でなびいていく。キラはじっと医師の顔を見入るように直視した。
「先生、僕の異常な消耗というのはやはり…」
 医師は言いたくなさそうに少しだけ顔を歪め、それからため息をつき小さく頷いた。
「ああ、君の病気は君が最高のコーディネイターであることに起因しているだろう」
 キラは手に持った薬の紙袋をぎゅっと強く握り締めた。それでもその瞳は揺るがなかった。
「そうですか、ありがとうございます」
 キラは頭を下げてそのまま部屋を後にした。



 病院は街から少し離れたところにあり、キラは考え事にふけりながら自分の家までの道をとぼとぼと歩いていく。この後シンたちに会う約束があったのでその前に頭の整理をしておかなければならなかった。薬は家に置いておいて、誰にも気付かれないように飲もうとすでに決めている。キラは自分の病気を誰かに伝えるつもりはなかった。どうせ死ぬのだ。だったら死ぬまでの期間、気を遣われたりなどの無用な心配をかけたくなかった。(それよりも…)キラは自分の短い生涯を考えて胸に表しきれない想いが怒涛のごとくあふれてきて無意識のうちに歩みが止まる。叫び出したいほどの様々な感情がキラの胸に歯止めもなくなだれ込んで来た。ここでいま大きく口を開けて声を限りに叫べたらどんなにすっきりするだろうとキラは思った。しかし人通りのある往来でそんなことをする勇気は出なかった。キラは頭を振って気持ちを落ち着かせ、一歩足を踏み出す。そうしてまた歩き始めると、ふと古びた喫茶店が路地の角にひっそりと立っているのが目に留まる。吸い寄せられるようにその扉を開けてみると、木製の扉に備え付けられた鐘がカランカランと心地よい音を鳴らしてキラを歓迎しているようだった。店は適度にすいていて店内に流れる音楽が木漏れ日に聞こえる木々のさざめきのように静かに店を包んでいた。キラが人目につかないような席に適当に腰をかけると白髪交じりの店主が奥からやってきて注文を聞いてくる。手書きのメニューを見ていったキラはカプチーノとチーズケーキを頼むことにした。注文が終わると店主はまた奥へと戻っていく。それを見届けたキラは軍服のポケットから手帳とペンを取り出した。手帳にはびっしりと軍での予定事項や仕事のメモが書き込まれていて、その合間に友人たちとの約束もメモされている。キラは見開きであいている後ろの方のページを開いてペンを走らせていった。
 『僕が死ぬまでにしたいこと』
 そう大きく書いてからいったんペンを止めて宙をぼんやりと見つめる。これはキラが思い残すことなく死ぬるための儀式のようなものだった。死ぬ瞬間に後悔したくないから、死ぬまでにしたいことをやっておかなければならない。大事なことなのでゆっくりと考えるが、いつもはあれだけしたいことが山積みだったはずなのに、不思議と今は具体的なことは何も思い浮かばずキラの筆は一向に進まなかった。そうこうしている内に無愛想な店主がカプチーノとチーズケーキを運んでくる。ここの店主は必要最低限のことしか口に出さなかったが、代わりにキラにかまうこともなかった。店主が近づいてきた時、キラは念のため手帳のページをさりげなく隠したのだが店長はキラの手帳なんぞには一瞥もくれず品物だけ置いて無言で下がっていった。その心地よい距離感にキラはカプチーノを一口飲んで息をつく。そしてチーズケーキをフォークで適度の大きさに切って口に運んだ。チーズケーキは最適な焼き加減で表面がうっすらと茶色くなっており中々の固さがあるのだが口に入れると途端に濃厚で甘いチーズがまろやかにとろけて広がっていく。カプチーノのあっさりとしたクリームと相まってとてもおいしかった。キラはその味に満足してもう一度手帳を開き、『僕が死ぬまでにしたいこと』の下にさっとペンを走らせた。
 『1.美味しいものをたくさん食べる』
 『2.両親に会いにいく』
 『3.みんなに手紙を書いておく』
 『4.慰霊碑に花を供える』
 そこまで書いてキラの手がまた止まった。カプチーノをゆっくりと飲んでチーズケーキを食べる。キラはペンの先をとんとんと机に一定の間隔で軽く叩きつけながら、ある一人の人物を頭に思い浮かべていた。それを手帳に書くか書かないか迷っている間に、こつこつという机を叩く無意味な音が店内の静かな音楽に合わせて響いていく。キラは目をつぶった。後悔して死にたくはない。できるならこの短い人生に満足して死にたかった。だから目を開けて躊躇っていた手を動かし迷っていた一文を書き加える。
 『5.アスランにキスをする』
 キラは自分が書いた5つの任務を眺めてこれ以上は何も思い浮かばないと悟り、ぱたんと手帳を閉じた。





 何も考えずに過ごしていた日々がもったいなくなるほどあっという間に時計の針が回っていく。12の文字をさしていたかと思ったら次には時計の針は再び12の文字をさしているのだ。そうして針が何周もしていった頃、キラは吐き気が強くなっていることを感じ取った。最初にもらっていた薬はもうなくなっている。それでもキラは病院に行く気にはならなかった。また色々検査をされるのが嫌だったのだ。
 ザフトで定期的に行われる模擬戦を終えてキラはコックピットから下へと降りていく。模擬戦は試作機のテストも兼ねていて、各戦闘はモニタールームを通して常に研究員に観察されていた。研究員は模擬戦での戦いを見ながら試作機の動きや機能を観測して、それに改良を重ねていくのだ。そして兵士には戦闘の結果や戦闘中の問題点を教えて改善を促す。兵士たちの成績は後にザフトの司令官にも届けられ、兵士の昇格や降格にも影響する重要なものだった。そういう模擬戦においてキラに求められる基準は非常に高く、キラは体調が良くないにも関わらず自分の能力を従来どおり維持しなければならなかった。
 未発表の最新モビルスーツがずらりと並んでいる格納庫を出ながらキラの体中には玉のような汗が噴き出していた。最近のキラの対戦相手はシンがほとんどであったが、戦闘中キラは今までと同じ動きを維持するのに精一杯であった。シンは優秀なパイロットなのでこれまでも何度か苦戦することはあったがキラがここまで全力を尽くさなければならなかったのは戦争以来初めてである。しかし心血を注いだだけあってキラは戦闘には満足していた。少なくとも見劣りするような結果にはなっていないはずである。モニタールームに向かいながら、それでもキラの心臓は今も激しい鼓動を繰り返していて治まる気配がない。部屋に入る直前になってかろうじてその異常な動悸が治まってくれた。だからキラは落ち着いた顔でモニタールームへと入っていく。入るとすでにシンが研究員の傍に立っていて自分の結果をもらっているところだった。しかしキラがそちらに近付いていってシンの横に並んでも研究員はパソコンを固い表情で凝視したまましばらくキラに気付かなかった。キラが声をかけてようやくキラに気付いたようで、成績のデータをキラの機械に転送してくれる。しかし研究員の表情はなおも固いままで眉をひそめてキラの方を振り返った。
「キラ・ヤマトさん、最近のあなたは調子が悪いようですね。動きが鈍くなっています。原因を把握していますか?」
「え?動きが鈍くなっている……?」
 キラがシンとの戦闘に骨を折っていたのは事実だが、それでも従来通りの力を出せていると自負していた。なので研究員にそう指摘されてキラの顔が知らず知らずの内にこわばっていく。自分で自分の能力を把握できなかったことにキラの背筋が寒くなった。心のどこかで慎ましく抱いていた自信のようなものが崩れていくようだった。そんなキラを前に、研究員は肩をすくめて機械的にスクリーンを指差す。
「自分で分からないのであればなおのこと問題ですね。特に最近のあなたは対戦相手から攻撃された時の反応、直後の反撃スピードが顕著に遅くなっています」
「そうですか…」
 キラは心の動揺を悟られないようにしながら顔に淡い微笑を貼り付かせた。余裕のある態度を見せなければ相手に不信感を抱かせてしまう。すでにシンは不思議そうな顔でキラを窺っていた。その視線を感じながらキラは研究員に笑ってみせる。
「原因は分かっています。近頃寝不足が続いていたので…今後気を付けます」
「それなら結構です。体調管理をしっかりとしてくるようにお願いします」
「はい」
 モニタールームを出ながらキラの吐き気がまたぶり返してきてとっさに口を押さえた。しかしキラは自分を追って走ってくるシンの足音を聞き、なんとか吐き気をこらえて即座に自然な態度を繕(つくろ)った。
「キラさんが調子悪いなんて珍しいですね」
「シン…」
「俺も思ってたんですよ。なんか最近のキラさんは少し前までと違うなーって。鈍くなってるっていうか…。寝不足ならしっかり寝てくれないとその内俺がキラさんを追い越しちゃいますよ」
 冗談のように笑うシンにキラは笑顔を返すのが精一杯だった。内臓から直接来る痛みに全身が苦痛を訴えている。キラはつい数週間前の自分を思い出して懐かしく感じた。あの頃は心に痛みを感じはしても体にはなんの痛みも感じていなかったのだ。それが今では信じられない。キラの体調は急速に確実に悪化の一途を辿っていた。





 それでもキラは変わらない日常を送る努力を続けていた。しかし最近では夜早く眠っても次の日にだるさが抜けないので疲労がかさんでいく。勤務中、基地で大事なプログラミングの基盤を作っている時もいつの間にか眠っていることがたびたびあった。会議中にもそんなことが何度かあり、上官に小言を言われるようになってしまった。今日も会議や大事な仕事があったのだが、キラはなんとか失態をせずに今日という日を終えられて安堵する。そんなぎりぎりの生活を抜けて明日からは数日間の休みをもらっていたので、キラは久しぶりに肩の力が抜けていた。そしてその休みを利用してオーブに出向く予定である。死ぬ前にオーブでやりたいことがいくつかあったのでそれらを全て終わらせるつもりだった。余命宣告を受けてすでに数週間が経とうとしている。いつ死んでもおかしくないのだから効率よく物事を片付けておきたかった。
 キラはオーブに到着してまずは慰霊碑へと出向いた。いつか見た夕暮れに染まった慰霊碑は色鮮やかな花に囲まれていて幽玄な雰囲気をかもし出している。ここでたくさんの人が死んだなどとは思えないほど美しく物静かな場所だった。しかしやはりどことなく寂しさが伝わってくる。過去に何度も訪れた場所であるが、次に訪れることができるかどうかキラには自信がなかった。慰霊碑の前にしゃがんで途中で買った花束をそっと供える。カモメがオレンジ色の空を優雅に飛んでいた。色々な気持ちがこみ上げてきて、キラは慰霊碑を食い入るように見つめていたが、しばらくして静かに口を開いた。
「どうか安らかに。僕も…もうすぐそちらに行きます。今まで僕は僕にできる限りのことを……」
 亡き人々への言い訳のような言葉が出てきそうになってキラは途中で言葉を切り口を閉ざす。波が岩に打ち寄せる音が幾度も繰り返された頃、キラは立ち上がってそこを後にした。
 その足でキラは両親の家へと向かう。事前に行くことを伝えていたので二人はキラと再会した時にとても喜んでキラを迎え入れ抱き締めてくれた。もう夜になっていたのでその後家族三人で楽しい団欒に満ちた食事をとる。母のカリダが作ってくれる料理はキラが幼い頃食べていた味と何ひとつ変わっておらず心が癒されるようだった。三人はなんてことなく普通に過ごしているだけだったがそれでも家族の愛に触れてキラの心が緩やかに温まっていく。食事が終わりソファに座っているキラにカリダは台所から顔を出した。
「キラ、デザートにマフィンを作っているの。少し待っていてちょうだい」
「うん、今日は泊まっていくから大丈夫だよ」
「あらそう?嬉しいわ」
 父のハルマも肘掛け椅子に座って電子新聞を読みながら微笑んだ。
「キラがこうして家にいると幸せだな」
「本当にそうね。まだまだ小さいと思っていたのに、いつの間にかこんなに大きくなって…私たちの息子はもう一人でも生きていける立派な大人になっていたのね」
「親としては嬉しいが少し寂しいものだな」
 両親の愛情に満ちた瞳がキラを優しく撫でていく。キラは胸がいっぱいになってそれを誤魔化すようにわざと明るく微笑んだ。
「母さん、父さん、僕はプラントに行っているけど僕の心はいつまでも二人と一緒だよ」
「キラ…」
 三人は笑い合ってから、カリダは急に奮起して台所へと戻っていく。
「それじゃあ私はお父さんとキラのために美味しいマフィンを作らないといけないわね」
 キラはそれを柔らかく見守りながらも、少しだけ体のだるさが増してきてソファに横になる。ソファに寝そべって目をつぶると、部屋はいつかの懐かしい過ぎ去りし日へと一気に戻っていった。テレビから流れる落ち着いたアナウンサーの声、父親が新聞を読みながら飲んでいるコーヒーの香り、台所で母親が鳴らす食器類の賑やかな音、マフィンの焼ける甘やかな匂い、それらだけがキラの全身を包んでいく。遠い昔の母の腕に戻ったような安心感にキラは久しぶりに何も考えずにただ身を任せていた。

「キラ、キラ、ここで眠ってはいけないわ。ベッドに行きなさい」
 優しいその声でふと目を覚ます。体が疲れていたし、あまりにも心地がよかったのでぐっすりと眠ってしまったらしい。のそのそと起き上がると、キラの上から毛布がずり落ちた。カリダはその毛布を拾って折りたたんでいく。どうやらキラが眠っている間に両親のどちらかがキラにかけてくれたようだった。キラが時計に目をやるともう23時を過ぎていた。
「ごめん、母さん…マフィン…」
「いいのよ。明日の朝みんなで食べましょう」
 キラがまだぼうっとしていると、カリダは隣に座ってキラの茶色い髪を何度か優しく撫でていく。
「キラ、あなたは私たちの立派な子供だわ。でも具合が悪いのなら無理をしてはいけないわね。早くベッドで寝なければ駄目よ」
「母さん…」
 キラは母のいたわるような優しい笑みを前にして急に罪悪感がこみ上げてきた。こんな風にずっと自分を愛して育ててくれた人に病気のことを言わないなんてどうかしているとすら思った。しかしキラは無用な心配をかけたくはないのだ。それにキラの病気の原因はキラの出生に関わる問題である。もし最高のコーディネイターゆえの病気でキラが死ぬと両親が知ればたくさんの悲しみを与えてしまう。キラが死ぬだけでも両親の悲しみは深いだろうに、それ以上の悲しみをもたらしたくなかった。両親のことを思って、キラの心が苦しく押しつぶされる。それに体はだるいし起きがけのせいか吐き気までしていた。キラはあらゆる苦痛に我慢できなくて再びソファへと沈んでいく。襲いくる痛みを抑えるようにキラは強く目をつぶった。
「キラ、本当に具合が悪いのね」
「違うよ。すごく眠いだけなんだ…」
「無理をしないで。いいから休みなさい。母さんが見ていてあげるわ」
 目をつぶっているキラの頭をカリダが優しく撫でていく。遠くの部屋からは父親がシャワーを浴びている音が聞こえてきた。テレビからは単調なニュースが報じられている。キラは昔と変わらぬ母の温かい手を感じながら心がじくじくと痛んで顔をゆがめた。
「母さん、いつも悲しい思いばかりさせてごめんね…」
「キラ…」
 部屋の隅では容赦のない針がまた時を刻んでいた。




続く



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