キラはプラントへと帰ってきて仕事を終え久しぶりに病院へと出向いた。最初に受診して以来一度も行っていなかったので、医師はキラを見たときに目を見開いた。しかしそれでもその顔はすぐに微笑に変わる。
「やっと来たんだね。心配していたよ。どうしてずっと来なかったんだね?」
「検査をされるのが嫌だったんです」
 キラは前にも通された医師の応接室に入りながら肩をすくめる。医師は苦笑を漏らした。
「検査はもうしない。私は君の体を実験材料にするつもりはない。まあ確かに…君の体を欲しがる研究者は多いと思うがね」
 キラの意図を正確に理解している医師の言葉にキラは無言で顔を上げる。医師はただ柔らかい笑みを浮かべているだけだった。
「それで君が嫌がる検査を私がすると思っていたのに、それでも君はここに足を運んだ。その理由は?」
「本当は来ないつもりでした」
 キラは医師から視線を逸らして小さく呟く。そのとき病院の外に広がる庭園から非難まじりの忍び声が響いてきた。詳しい内容は聞き取れなくても何を話しているのかはキラにも医師にも分かっていた。この頃のプラントは先のカーペンタリアでの騒動で持ちきりだったのだ。それは病院でも同じでキラが医師の部屋に通される前に歩いた廊下でも患者たちがカーペンタリアでのことや今後の情勢について厳しい顔で話し合っていた。医師はため息を漏らし窓の外を眺める。
「戦争が終わって1年半…こんなにも早く争いが生まれるとは…。我々は何度同じことを繰り返すのだろうか」
「人を殴るのは簡単です。殴ろうと思えば僕たちはいつでも目の前の人を殴れる。でも僕たちは殴ってはいけないんです。みんなそれを分かっているのに殴り合っている。何度でも簡単に繰り返されるのなら、僕たちは何度でもそれを止めるだけです」
 穏やかにそう言うキラに対して医師は切なそうに眉を寄せた。
「それで君がここに来た本当の理由はなんだね?」
 キラは机の上に置かれた自分の両手をしばらくじっと見つめていた。医師は小型のスクリーンにキラのカルテを映し出しながら、何を言うでもなくただキラの意志に任せて待っていた。キラは両手を強く握って不意に口を開く。
「先生、僕の余命を延ばす方法はないのですか?」
 医師はキラが何を言うかすでに分かっていたようにその目が悲哀に細まった。キラは顔をあげて医師の顔をこれまでになく真剣に見つめている。治療を待っている庭園の軽症患者たちは今度は別の話題に移ったのか楽しげに談笑に興じている。その患者たちにある未来が、医師が当たり前のように手にしている未来が、ただ一人キラには欠けていた。医師はスクリーンに映るカルテに視線を落とす。そこにはこの前キラの体をくまなく検査した結果がずらりと羅列されていた。カルテは絶望的なまでにキラの確実な死をひっそりと囁いている。医師は一度目を閉じてから決意するようにキラに視線を合わせた。
「ヤマトさん、もし君を救い出す方法があるのなら私がそれを行わないと思うかね?」
 キラは痛々しげに顔を歪ませてゆっくりと俯いた。その体が少しだけ震えていて、医師は机に投げ出されたキラの手の上にそっと自分の手を重ねる。
「私は君のことをよく知らないが、それでも君が戦時中にどれだけ活躍してきたかは知っている。君のその手にどれだけの力が秘められているかも知っている」
「僕は…戦わなければならないんです」
「そうだったね」
 まるで今はそうじゃないかのような医師の言葉にキラは顔を上げて叫んだ。
「あなたは知らない!僕の力をいま必要としている人がいるんだ!」
「そうだろうね。そうだろう、君の力は通常のコーディネイターを遙かに越えている」
「だから僕が僕の想いと一緒に戦わないと…」
 キラは苦しげに言葉を吐き出していく。医師はキラに分からせるように残酷に言い聞かせた。
「君を治す方法はない。何度も言いたくはないが、君に残された時間はもうあまりないんだよ。これが現実だ」
 キラは無言で椅子に座り続けていた。トリィがキラの肩から離れて窓の外へと飛び立っていく。医師は青い空へと飛んでいくトリィを目で追いながらキラの手に優しく触れる。
「ヤマトさん、我々人類は常に上を目指してきた。しかし我々は死からは決して逃れられない。君だけじゃない、君の知人たちにもいつかは必ず死が訪れる。それでも世界は続いていくんだよ。いつまでも君や君の知人たちが世界を守っていけはしない。私が思うに、だからこそ人は残された人たちに自分の意志を託していくのではないのかな?世界はそうやって続いてきたし、これからもそうやって続いていくんだ。君がこの世界からいなくなっても、君の想いは続いていく。君の想いを続けてくれる人がいる。そうだろう?」
 キラの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちていく。キラから離れたトリィがどこか遠くで歌うように鳴いていた。医師は立ち上がり後ろの棚から袋を取り出して静かに机の上に置いた。
「これは君の薬だ。少しだが吐き気や体の痛みを抑えてくれる。これ以上強い薬はもうないがそれでも君に完全に効くわけではないだろう。しかし飲まないよりはいいはずだ。生きたいという君であるなら、生きている間は最善の体でいなさい」
 キラは隊長服の袖で目元をぬぐって薬を受け取り立ち上がった。お礼を言ってから立ち去ろうとするキラを医師は呼び止める。不思議そうな顔をしているキラに医師はポケットからもう一つ今度は可愛らしい小さな袋を取り出した。
「ほら、この前君が美味しいと言っていたキャンディーだ。用意してずっと待っていたんだが君がなかなか来なかったんでどうしようかと思っていた」
 キラの顔にふっと優しい笑みが広がってキラは素直にそれを受け取った。
「ありがとうございます」
 キラが病院から出ると人工の空はちょうど暮れかけのオレンジと青が入り交じった綺麗な色合いに染まっていた。空を自由に飛んでいたトリィが柔らかく舞い降りてきてキラの肩に留まる。キラはまだ帰る気にはなれなくてこの前行った小さな喫茶店にまた立ち寄ることにした。喫茶店の店主はキラのことを覚えていたようで前と同じ落ち着く端っこの席を勧めてくれた。キラの方もカプチーノとチーズケーキというまったく同じものを選んで注文する。食べ物を待っている間、キラは手帳を取り出して死ぬまでにしたい一覧をもう一度眺めてみた。確認するまでもなく、もうほとんどやり終わっている。アスランとのキスはオーブでし損ねてしまったが、みんなへの手紙はいつだって完成できるものだ。店主が運んできたカプチーノを飲みながらキラはオーブで別れた二人のことを考えた。具合が悪くなったキラはあのまま部屋で休み、次の日にはシャトルでプラントに戻ってしまった。喧嘩別れではないが、それに近い形で別れてしまいキラの心が嫌な風に縮こまっていく。キラは手帳から一枚紙を切り取って書き付けた。
『カガリへ
 泣いちゃいけないなんて言ってごめんね。君は泣いてもいいんだよ。だけど泣いてはいけない時があることを覚えていて。元々僕と君は双子で繋がっている。だから僕の魂を君にあげる。だから君は君の想いを貫いて』
 それだけ書いてキラはその紙を折り畳んで封筒にしまった。店主のいれたカプチーノは相変わらずあっさりとしたクリームでチーズケーキは相変わらず甘く濃厚で、その味がキラの心にしみ入った。




 ザフトの基地はにわかに慌ただしくなっていた。休憩時間に巨大スクリーンの前に集まりニュースを見る人も増えている。このまま戦争に突入するのではないかという噂が至るところで乱れ飛んでいた。それで不安げな顔をしている人もいれば、逆にやる気を出してザフトでの勤務に気合を入れている人もいる。
 会議を終えたキラが部屋に戻っている途中で、今日もまたスクリーン前には人が群がっていた。しかしいつもよりもたくさんの人がスクリーンに釘付けになっており、キラは眉をひそめてそちらに近づいていく。すると大画面にはキラのよく知っているピンク色の髪をした女性が映し出されていた。カメラはその女性、ラクスが正装を着て議会におもむいている姿を捉えている。決然とした顔のラクスを背景に映しながらアナウンサーは視聴者に最新ニュースを伝え出した。
「先ほど入った情報によると、ラクス・クラインが大西洋連邦、ユーラシア連邦、オーブの緊急協議に参加することが決まった模様です!この協議はプラントの参加を禁じておりましたが、ラクス・クラインはプラントとしてではなく個人として参加することが決定したようです!これは事実上、大西洋連邦並びにユーラシア連邦がオーブの要請に折れた形になりますが、いったいこの協議の行方はどうなるのでしょうか?」
 キラは初めて知る事実に度肝を抜かれ大きく目を見開いた。何人かがキラとラクスの関係を知っているのか、キラを振り返って興味深げにチラチラと窺ってくる。キラはいても立ってもいられず衝動のままスクリーンに背を向けて走り出した。ニュースの情報が正しければ、この協議はプラント及びザフトの立ち入りを禁止している。そうだとすればラクスの護衛はザフトには任せられずラクス個人で護衛を雇うはずである。何もかも放り出してキラはラクスのところに急ぎ向かった。しかしやはりすぐに胸が苦しくなって吐き気に襲われる。キラの体はすでに走ることさえままならなくなっていた。キラはめまいのようなものまで覚えてふらふらとその場にしゃがみ込み大きく息を吸って体を立て直す。自分の能力不足に泣いたことは数あれど、走ることさえできないのはさすがにつらかった。
 車などを使ってキラはようやくラクスのところに到着する。ラクスは議会での会議を終えて自分の公務室に戻っていた。落ち着きを取り戻そうと深呼吸したあと、キラはゆっくりとラクスの部屋に入っていく。ラクスはちょうど部屋の中で考え深げに世界のニュースを見ていたところだったが、キラが扉から現れたことで驚いたように息を呑んだ。
「キラ、どうなさいましたの?」
「君が協議に参加するって聞いて。僕は全然聞いてなかったから心配で…」
「はい、カガリさんが始めのうちはプラントも緊急協議に参加できるよう取りはからってくださったのですけど大西洋連邦とユーラシア連邦がかたくなに拒絶しましたので…。でしたらせめてわたくしだけでもとカガリさんが強硬に手配してくださいましたの。ですからわたくしは明後日には地球に降りますわ」
 ラクスは沈んだ面もちでソファに座って悲しそうにため息をついた。しかしキラは肝心なことを忘れているラクスにもどかしそうに言い募る。
「だったら僕も一緒に行くよ。君やカガリを傍で守りたいんだ。アスランも来るだろうし…」
 しかし意外なことにラクスはキラから視線を逸らしたまま、その顔にはますます憂いが浮かんできた。ラクスは手近にあった小さいスクリーンを手に取りそれを起動させる。
「キラ、あなたは行かない方がよろしいと思いますわ」
「どうして…!」
 キラは憤るようにラクスに近寄っていきラクスの瞳から意図を掴もうとした。しかしラクスはスクリーンに目を落としたまま柔らかく首を振る。
「キラには休養が必要ですわ。キラはプラントにいてくださいな」
「ラクス!僕は…っ」
「キラ、あなたの体調が芳(かんば)しくないことは分かっておりますの。ですからあなたを連れて行くわけにはまいりません」
 ラクスはスクリーンから顔を上げていたわるようにキラを見据えた。そこでキラはハッとしてラクスの持つスクリーンに視線をやる。そこには兵士たちの調査書が幾ページにも渡って記載されているようで、その中にはもちろんキラの情報も載っているはずだった。キラは最近の自分の成績の悪さをラクスに知られていると思い顔が赤くなっていく。しかしラクスはそんなキラの思いを汲み取ったのかスクリーンをオフにして静かに言葉を重ねた。
「キラ、わたくしはあなたを心配しているのです。あなたには休養が必要なはずですわ。…いえ、わたくしはキラに休養していただきたいのです。あなたに無理をさせたくありません…」
 キラはラクスの手からスクリーンを取ってそれを机の上に置き苦しげに眉を寄せた。
「だけど僕だって君たちの力になりたい。君だって僕の力を必要としているはずだ。僕が必要だから君は僕がザフトに入るのを受け入れたんでしょ?だったら僕は君のために…っ」
「キラ、わたくしが一人では何もできないとでも思っているのですか?」
 キラが驚いてラクスを見ると、ラクスはキラの目をまっすぐ真剣に見つめていた。その瞳は普段の落ち着いたラクスからは想像もできないほど激しく燃えていて、そこには憂いから決意まで多彩な感情があふれだしていた。キラはそのまなざしを受けて動揺し、言いかけていた言葉が自然と喉の奥で消滅していく。ラクスはもう一度キラに納得させるように言葉を吐き出していった。
「キラの体調が芳しくないことは司令官からの報告書を見ても分かりますわ。ですからキラ、あなたはプラントでゆっくりしていてくださいな」
 キラは向かいのソファに崩れるように座り込む。医師からもらった薬はもとよりそんなに効かないのだが、数時間経つとその効果が更に薄れていってしまう。キラは体調が悪いせいで体から熱が奪われていくように急に寒気を感じた。寒くて震えそうだったが、しかしそれをラクスには気付かれたくなくて平気な振りをしてただ静かにソファに座っていた。ラクスはそんなキラの方に手を伸ばしその手にそっと触れ、悲しそうに微笑みかけた。
「キラ、分かってくださいませんか?わたくしはあなたに無理をしてほしくないだけですの…」
 キラはラクスの優しい熱を感じながらしばし沈黙し、その後でようやく小さく頷いた。ラクスはそれに安心して立ち上がり、まるで母親が子供にするようにキラの頭にそっと柔らかく慈愛に満ちたキスを落とす。
「キラ、わたくしがあなたの分も頑張ってきますわ」
「うん…ごめんね…」
 キラはそうぽつりと声を漏らす。キラがラクスの主張を受け入れたのには理由があった。キラは今の自分ではラクスたちの役に立てるかどうかもはや定かではないと唐突に気付いたからであった。




 ラクスは協議に参加するため個人的な護衛をつけて協議開催地へと赴いていった。その間キラは休んでいるようラクスに重々言われていたが、それでもキラはザフトへの出勤を続けていた。
 今日も模擬戦の日だったが、キラはシンとの戦闘で防戦一方に追われ戦闘が終わった頃にはひどい疲労に襲われていた。大量に汗をかいており操縦桿を握る手が極度に震えている。対戦相手のシンが悠々とモビルスーツから降りていってもなおキラは動けずにコックピットの中で懸命に震えを抑えようとしていた。十分ほどが経ち、ようやく体が正常に戻ってきたのでキラはコックピットからなんとか外に出る。シンは中々降りてこないキラを心配していたのか、キラが真っ青な顔をして地面に着地したのを目に留め、すぐさま駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「ごめん、大丈夫だよ」
 キラは模擬戦の結果を受け取るためモニタールームに移動しながらシンに微笑みかけた。しかしシンは移動している間中ずっと顔をしかめてキラを見つめていた。
「キラさん、なんか最近…」
「なに?」
 モニタールームに到着したキラたちを担当の研究員が待っていた。そして研究員が無言でキラに結果のデータを渡していく。シンもポケットに突っ込んでいた小型機械を無造作に研究員に差し出して自分のデータを移してもらいながら、それでも視線は依然としてキラに向いていた。
「キラさん、最近なんだか本当に調子が悪いみたいですけど…」
 その言葉に研究員も厳しい顔で同意を示した。
「そうですね。ひと月前からキラ・ヤマトさんの戦闘データが急速に悪化しています。状況の改善が見えませんね」
 キラはしばらく黙って自分のデータを見つめていた。そこに示されているデータは隊長を名乗っていることすらもおこがましく思えるほど惨憺(さんたん)たる結果であった。過去のキラの全てが今のキラを否定していた。今のキラは過去のキラの30%程度の成績しか出せていない。キラは残酷な結果を映し出しているスクリーンの電源をぞんざいに落とし、冗談めかして軽く笑った。
「僕ももう引退する時期なのかもしれない」
「引退ってまだ20歳にもなっていないのに早すぎですよ」
 部屋から出ていくキラの後をついて行きながらシンが言葉を投げかける。それでもキラは返事をせずにただ廊下を落ち着いた足取りで歩いていった。シンはキラに追いついてその顔をのぞき込む。
「キラさん、本当にどうしたんですか?変ですよ」
 シンは心配そうにキラを見つめていた。その時キラの胸に不意にシンへの思いがこみ上げてくる。だからその気持ちのままキラはシンと視線を合わせて微笑んだ。
「シン、君は優秀だね」
「は?今は俺のことは関係ないでしょう」
「ううん、関係あるよ。君は優秀だ。誰もが認めるほど君は優秀なパイロットで、僕が認めるほど君の心は純粋でまっすぐだもの」
「な…っ」
 なんの覆いもせずに直球で誉められて見る見る間にシンの顔が赤く染まっていく。キラにそんな手放しの褒め言葉をもらったのは初めてだった。キラは素直な反応を示すシンを穏やかに見つめていた。
「シン、ザフトには君がいてくれる。君がここにいてくれてよかった。この先どんなことがあっても、今の君ならきっと君の力でたくさんのものを守れるよ」
「え?」
 まるで何かを匂わせるキラの言いようにシンの赤く色づいた顔が少しだけこわばった。しかしキラの足取りは柔らかく毅然としていていつものキラそのものであった。だがシンはキラと過ごした日々はそんなに長くはなかったけれども、それでもその澄んだ横顔がいつもと違っていることには気が付いた。
「キラさん…?」
 シンの心が嫌な予感でざわざわと波紋を広げていく。不安を抑えきれずシンは怯えたようにキラの名前を呼んだ。キラの艶めいていた茶色い髪はよく見ると今は光彩を失っていて哀愁まで帯びているようだった。それでもキラの髪は窓から入ってきた人工の風に自由にもてあそばれている。シンは不安に駆られてキラをじっと凝視した。しかしキラはそんなシンに向かってただ物柔らかな微笑を漏らしただけであった。



続く



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