そして舞踏会の当日になった。キラが覗いているとその日のシンの家は一日中あわただしくてシンも大わらわのようだった。シンの家だけではなく、この辺りの家一帯が朝からてんやわんやしているようだった。その中でもシンは飛び切り忙しいようで、義姉が舞踏会のドレスを美しく着れるようにと義姉のためにダイエット食を早朝から作っていた。かと思えば今度は義母のために豪勢な食事も用意している。そして次には家の掃除をして回りその後は姉の舞踏会の準備を手伝って、次には馬車と御者の手配を確認したりとシンは右に左にと動き回っていた。キラはそれを観察しながら手伝おうとも思ったがシンの家族に自分の姿を見られる可能性があったので今回はただ隠れて見守るに留める。それにシンはキラの手助けを望んでいないと分かっていた。だけどタイミングを見ては、せわしなく働いているシンの前に現れて声をかけたりしていた。
 キラがシンの家族の様子を窺うと現在シンの姉は舞踏会のために部屋で専門職人を呼んで髪や化粧を整えているようだった。そして母親もそこに付きっきりになって指示を飛ばしている。それを見て取ったキラは微笑み、木の陰から姿を消した。そして次にはキラは玄関の近くでうずくまっているシンの前に忽然と現れる。
「どう?頑張ってる?」
「頑張ってるよ!見りゃ分かるだろ」
「うん、分かるけど」
 キラは階段にゆっくりと座りこみ悪戯そうに笑うが、シンは忙しくてキラの方には見向きもしなかった。それにシンはキラが自分の前に突然現れることにはもはや慣れっこになっていた。そんなことにいちいちかまっていたら時間の無駄だととっくに見切りをつけている。そして今もシンはキラに背中を向けて先ほどまでとまったく変わらず姉と母親の靴を必死に磨いていた。キラは手助けを望まれていないことを承知していたのでいつも通り魔法の杖をしまったまま、ただ物柔らかに仕事をするシンの姿を眺めていた。
 時折、遠くの部屋からシンの家族の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。舞踏会を前にしてシンの家族は興奮して上機嫌に談笑しているようだった。だけどシンだけはその輪から置き去りにされている。シンは一人だけ汚い格好をして玄関に這いつくばって、姉のきらびやかな靴についた小さな汚れをひたすら真剣な眼差しでふいていた。綺麗な絹で何回こすっても中々汚れが取れなくてシンは苦戦しているようだった。玄関にはじりじりとしたきつい陽光が差し込んでいる。暑さと労働でシンの額から汗が流れ落ちていった。キラは真剣で一生懸命なシンの様子を見つめながら何度となく手の中に魔法の杖を出現させる。キラがその杖を靴に向けて単純な呪文を唱えさえすればあっという間に魔法が生じてシンを苦しめる小さな汚れは綺麗にぬぐい取られるのだ。だけどキラは何度となく杖を手の中に出しては何度となくその杖を消失させていた。魔法で解決するのはいとも簡単であったが、それはシンの気持ちを台無しにすることだと分かっていた。そして今もまたキラの手から魔法の杖が消え失せていく。再び遠くの部屋から笑いさざめく声が聞こえてきた。どうあってもシンはそこには入れない。常にずっと永遠にシンはこの家では一人きりだった。それでもシンは家族のために真面目に働き続けている。キラはそんなシンをただじっと見つめるだけだった。シンは汗を流しながらまだ姉の靴についた小さな汚れと奮闘している。二人のいる寂しい玄関には沈黙だけが降りていた。




 やがて空が薄紫に染まっていき、シンの家族は舞踏会へと出かけていこうとしていた。フレイは頭からつま先まで完璧に美しい姿をして屋敷から現れる。シンも門まで家族を見送るためにその後からついてきていた。手配していた馬車と御者がすでに門の外で今日の主人を待っている。シンの義理の母親はさっさと外へと出て行ってしまったが、フレイは馬車へと歩き出す前にふと後ろにいるシンを振り返った。
「シン、色々とありがとう。あなたのおかげで素敵なドレスで舞踏会に行けるわ」
「いいんだ。喜んでもらえて俺も嬉しい」
 華やかで高級感のあるドレスをまとった姉とはまるっきり対照的にシンはみすぼらしい服を着ていてまるで一人だけ貧民のようだった。しかしそれでもシンはフレイに笑いかける。フレイは少し気まずそうな顔をしながらもドレスの裾をひらめかせてシンに背中を向けた。
「それじゃあ留守番頼むわよ」
「ああ、行ってらっしゃい」
 そのまま屋敷から去っていく姉を見送りながらシンはようやくしばらく休めると心のどこかで安堵して息をついた。御者によって屋敷の門が閉められ、馬車は浮かれた足取りでお城へと踊り出ていく。周りの屋敷の人々も今日というお祭り騒ぎに陽気に騒ぎながら馬車に乗りお城へと出掛けていった。シンも正統な貴族の一人であり舞踏会に行ける身分であったが、今はただ広い庭に一人ぽつんと立ち尽くす。ここ最近の重労働で手が赤く腫れていた。薬でも塗ろうと賑やかに沸く世間に背を向けてシンは屋敷へと歩き出す。
「君は行かないの?」
 しかし澄んだ声が後ろからシンを引き留める。シンがゆっくりと振り向くとキラが噴水の縁に相変わらず音もなく座っていた。キラの瞳がまっすぐにシンをとらえていて、薄紫の空とその瞳がやけに調和していた。シンはそんなキラに呆れたように首を振る。
「王子の結婚相手探しの舞踏会に俺が行ったって仕方ないだろ?」
「でも僕が見てたらこの辺の人たちは男性も女性もそろって出かけていたよ。楽しいパーティなんでしょ?君も行ってきたらいいじゃない」
 シンは顔を歪めて自分の姿をキラに見せつけるように大きく腕を広げた。
「本気で言ってんのかよ。俺の格好を見たら分かるだろ?俺は舞踏会に行けるだけの服なんて持ってない。それに今日は掃除ばっかしてたから体だって汚いし…。からかってんのか?」
「からかってないよ」
 キラは静かにそう言って立ち上がり、シンの元へと近づいていく。シンはそっぽを向いてキラから顔を背けていた。拗ねたようなシンの手をキラは優しく掴んでそのまま噴水へと引っ張っていく。
「何すんだよ」
「少し話そうか」
 キラは噴水の縁にまた腰をかけ、シンを導くように誘いかけた。シンは不機嫌なままだったがそれでもキラの隣に不承不承腰掛ける。しかし座った二人の間には自然とは言えない広い距離が開いていて、分かりやすいシンにキラは微笑を漏らした。
「ねえシン、君は人生をどう考えてるの?」
「…人生?」
「うん、君の人生設計だよ。まさかこのままこの家に一生いるつもりじゃないでしょ?」
「それは…」
 シンは視線をさまよわせて顔を俯ける。シンだって今のままずっと生きていくわけにはいかないと自覚していた。しかし屋敷も屋敷の財産も正当に自分の義理の母親のものだったのでシンにはどうにもできないことだった。加えてシンには頼れるようなつてもない。それに義理の母親は体よく無料でこき使えるシンを手放そうとはしていないのだ。
 噴水のふちに下ろされたシンの手がぎゅっと強く握りしめられシンの瞳が不安定に揺らめいた。キラはそんなシンを穏やかな表情でただ見つめる。
「君も分かってると思うけどこのままじゃ駄目だよね。君は孤独なまま死んじゃうよ」
「俺は…」
 シンは地面にはえている生き生きとした芝を見るともなく見ていたが、不意に顔を上げてキラと視線を合わせる。
「孤独って言うなら、あんただって孤独に見える」
 思いがけない言葉にキラは目を見開いた。しかしそれには構わずシンは影をはらんだ顔でぽつりと呟く。
「妖精のくせに。…まずは自分の問題を解決しろよ」
 キラは放心したように思考が停止してしばらく言葉が出てこなかった。キラの顔からは微笑がぬぐい去られ、心臓が小さくのたうった。突然黙りこんでしまったキラからシンはぎこちなく視線を外し、今度は天を仰いでため息をついた。星屑が二人の頭上できらきらと瞬(またた)いている。キラは自分の心を制御しようと一度長々と目を閉じる。そして目を開けた時にはキラの顔はもう先ほどまでと同じく軽やかな笑みで飾られていた。
「じゃあもう孤独な者同士、僕たち一緒に生きちゃおうか」
「はぁ?」
 驚き呆れたようにシンがキラを振り返ったのでキラはくすりと笑って肩をすくめた。
「冗談だよ」
「笑えない」
「うん、笑えないね。だって君このままだと死んじゃうからね」
「は?死…?」
「そう、君の人生が死んじゃうよ」
 キラは戸惑っているシンの瞳をまっすぐに見つめる。キラの視線はまるでシンの魂を直接見ているかのように不思議に澄んでいて鋭く柔らかなものだった。ややあって出し抜けにキラの顔が優しい色に染まっていく。
「せっかく君はたくさんの素晴らしいものを持って生まれてきたのに、それが死んじゃうなんて駄目だよね。…うん、駄目だ」
 最後の方はまるで自分自身に言い聞かせるようにキラは呟いたが、隣にいるシンの顔には疑問がいっぱい浮かんでいた。しかしキラは自己完結して軽快に立ち上がる。
「うん、シンは舞踏会に行かないと!」
「まだそんなこと言ってんのかよ。だから俺は舞踏会に行けるだけの状態じゃ」
「君こそ何を言ってるの?僕が魔法を使える妖精だってこと忘れてるんじゃない?」
 キラの言葉と同時にその手の中に白い魔法の杖が輝きながら現れた。それでもシンはまだ噴水に座ったままやる気がなさそうに顔をしかめている。
「だけど俺が舞踏会に行ったって仕方ないだろ?俺は男だから王子の結婚相手探しになんか興味ないし」
「大丈夫だよ。君は可愛いからきっと」
 そこまで言ってキラの顔に一瞬寂しそうな色がにじみ出たが、その直後キラの表情はまた明るいものに変わり悪戯そうに笑った。
「きっと舞踏会で君に素敵なことが待ってるよ、シン」
「ええ?でも俺は別に…」
「ごちゃごちゃうるさいな。とにかく君は舞踏会に行かなきゃ」
 キラが問答無用にきらめく白い棒を大きく振ると棒の先端から白い光が水のように飛び出して、見る見る間にシンを取り囲んでいく。シンがぎょっとしているのも構わず、キラはくるくると魔法の杖を調子よく振っていきシンの周囲がますます光り輝いていった。シンは澄んだ光の渦の中心で呆然と息を呑んで硬直している。そしてキラは魔法の杖を唐突にひょいと止めた。するとあふれ出ていた白い清らかな光が段々と薄くなっていき周囲の空気に溶け落ちていく。そしてあっという間に世界は元通り何の変哲もないものに落ち着いていた。しかしそんな世界でシンだけはただ一人魔法にかかったまま呆然と立ち尽くしている。だがシンはなんとかこわばった頭を下に下ろして恐る恐る自分の姿を確認してみた。
「はあ!?なんだ、この格好!」
 シンは自分の目を疑って何度もまばたきを繰り返すが、何度見てもそれは疑いようのない現実であった。
「可愛いでしょ?」
 キラは会心の出来だと言わんばかりににこにこと満足げに笑っている。しかし当のシンからはうめき声がほとばしった。
「ちょっ…勘弁してくれ!俺にこの格好で舞踏会に行けって言うのかよ!」
「うん、気に入ると思ったんだけど」
「男の俺がこんなひらひらしたドレスを着て行ったらただの変質者じゃないか!俺は絶対に行かないぞ!っていうか元に戻せ!」
 シンは度肝を抜かれるやら恥ずかしいやら怒りやらでわなわなと震えながらキラに怒鳴った。しかしキラはシンの反応を無視して周囲を見渡し、ふとカラカラという馬車の音に気付いて嬉しそうにシンに呼びかける。
「ほら、シン!迎えが来たよ!」
「はあ!?迎えって…冗談じゃないっ!俺は絶対に行かないぞ!」
 それでもキラは怒っているシンを外に連れて行こうとその背中を強引に押し出していく。
「まあまあ、いいから行ってきなよ。君、可愛いから大丈夫。女の子に見えるって」
「はあ?見えるわけないだろっていうか押すな!」
 キラとシンは門の前でぐいぐいと本気の押し合いを始めた。シンは断固として行かないと心に決めているように強行にキラを押しのけて屋敷に戻ろうともがいている。門の前で騒いでいる二人の傍で馬車が優雅に動きを止めた。シンはキラに対抗しながらも、わずらわしげにその馬車に目をやって直後意表をつかれて腰を抜かしそうになる。その馬車はシンが今まで見たこともないほど豪華な装飾が施されており、一方で上品さは失っておらず桁違いに洗練されていた。馬車の運転席からは身だしなみのよい御者が流麗に降りてきてシンに頭を下げる。
「シンさま、王子よりお言いつけを受け賜り、貴殿をお迎えに参上しました」
「は…?王子…って、え!?」
「ね?もう諦めて行くしかないでしょ。素敵な王子様が君を待っているんだから」
「なっ…どういうことだ!?」
「どうもこうも、とにかく行ってみたらいいじゃない」
 キラは仰天しているシンの隙をついて魔法の杖を素早く取り出し、シンにぱっと魔法をかけてしまう。するとシンの体がまるで気品のあるお嬢様のように粛々と勝手に歩き出していく。自分の意思を無視した自分の挙動にシンは更に怒りで顔を赤くしながらキラに叫んだ。
「やめろって!魔法をとけよ!」
 キラに操られたシンはそのまま無情にも自分の体で優雅に馬車へと乗りこんでいく。そしてシンを閉じこめるように御者は落ち着いて馬車の扉を閉めてしまった。キラに一礼した御者は運転席へと戻っていき、なめらかに馬車を滑らせる。キラはそれを穏やかに眺めて、ふと馬車の中でまだ騒いでいるシンの声が聞こえてきたので笑みを浮かべた。
「行ってらっしゃい、シン。舞踏会を目いっぱい楽しんで」





 無理矢理馬車に乗らされたシンはなんとかそこから抜け出そうとまだ格闘していた。しかしキラの魔法が現在も持続しているようで思うように体が動かない。男なのに白いドレス姿で舞踏会に行く羽目になることを考えてシンの体に冷たい汗が流れ落ちる。このままではシン自身にとんでもない変態だという噂が生涯つきまとう上に、シンの家族であるフレイたちにまで迷惑がかかってしまう。そうこうしている内に馬車は街をどんどん流れるように走っていき、ちらりと見えた窓からは大きく美麗なお城までが見え始めた。
「やばい…っ」
 シンは体をなんとか動かそうと意志を総動員させるが、自分の体はゆったりと椅子にもたれかかったまま力が一切入らない。ハイヒールをはいた足など上品にぴたりと閉じている始末だ。
「どんな嫌がらせだよ!あいつ本当に俺を助ける気があるのか!?」
 シンが焦って窓の外を眺めるとお城へと続く道の先にきらびやかな光が見えだした。お城の門がすぐそばまで近づいている。あたふたとしている間に、とうとうシンを乗せた馬車がお城の門を通過していく。前の馬車は門兵に止められてチケットや馬車内の確認をされているのにこの馬車は門兵に止められることもなくあっさりと城壁を越えてしまった。やはり異常事態である。城壁の中の道は今までの道とは格段に異なりまばゆく磨き上げられていて、道沿いには美しい花々が咲き誇っていた。
「……っ」
 ここまで来るとシンはどうにか心を落ち着かせようと覚悟を決める。とにかくキラの魔法が解けたら全速力で逃げ出すしかない。しかし気になったのはこの馬車が本当に王子の寄越したものであるらしいということだった。でなければ、確認もされず城壁を通過できるわけがない。キラがどういう魔法を使ったかは知らないが王子がわざわざ王宮付きの馬車を寄越して自分を迎えさせるという状況がもう恐ろしかった。キラの魔法は人の意志をねじ曲げてその人の体を自在に操れる力を持っているのだ。それをシンは現在身を持って体験している。だからもしかしてキラは王子のことも操っているのかもしれないとシンは考え色々な意味で背筋が寒くなった。王子がもしキラの魔法でたぶらかされているのなら、女装した怪しげなシンが大ホールについた瞬間に王子はシンに求婚して愛を囁いてくるかもしれないのだ。そしてもしそれが魔法によるいかさまだと判明してしまった場合は自分にどんな凄惨な刑が待っているのかを想像してシンはぞっと身震いした。そうやってどんどん恐ろしいことを考えている間に馬車はしなやかに停止してしまう。そして心が凍り付いているシンの前で御者が恭しく馬車の扉を開け放した。
「シンさま、宮廷舞踏会へようこそおいでくださいました」
 キラの魔法がまだ解けていなかったので、シンははなはだ大げさなぐらいしとやかに馬車を降り、気品に満ちたその足が勝手にお城の階段を上っていく。階段の両端には威圧するように兵士がずらりと並んでおり、階段を上るにつれてシンの顔がこわばっていった。いつ自分が変質者だと気付かれるか気が気ではない。それにも増していつ王子が自分の前に現れて膝をついて自分の手にキスをし求婚してくるかと思うと生きた心地がしない。心なしか兵士の顔が鋭いものに変わっている気がしてシンは恐怖と恥辱で大声で叫んで逃げ出したくなった。
 前方に巨大でいかめしい扉が見えてきて、その扉からはうっすらとした光が漏れだしている。楽しげなワルツが聞こえてきてもう舞踏会が始まっていることが窺えた。シンが扉にたどり着くと、兵士が丁重に扉を開けてくれる。扉が開き、宮廷舞踏会がシンの視界いっぱいに広がった。圧倒的にきらびやかで類を見ないほどまばゆいばかりの舞踏会であった。天井には豪華絢爛なシャンデリアがきらきらと辺りを輝かせ、その下では世界中の宝石を集めたような鮮やかな色々が無限に華麗に舞い踊っている。シンの後ろで扉がゆっくりと閉められていった。シンは魅入られたようにホールで舞う無数の花々を見つめていたが、ふとホールの上部席にこの舞踏会を開催した宮殿の王族の席が設けられているのに気が付いた。しかしその席には現在この舞踏会の主役の王子はいないようである。シンはそれにほっとしたが、魔法はまだ解けていないようで、シンの足が舞踏会のホールに向かって華麗に階段を下り始める。今のところ変質者だと誰にも気付かれていないようでそれにも安堵するが、時間の問題でいつかはバレると分かっていた。シンが慣れないハイヒールと慣れない重たい装飾華美のドレスで下までようやく降りきると、ふと不意に体が自由になっていることに気が付いた。何かから解放されたように自分の意思がふわりと体に戻ってきている。シンはそろそろと自分の意思で指を一本動かそうと試みて、実際に指がぴくりと動くのを見た。自由に体を動かせられる喜びがシンの心に吹き上がる。シンは誰かに声をかけられる前にさっそくいま来た道を逆戻りしようと走り出そうとして一歩も歩かない内に体が不自然に硬直してしまった。また体が動かない。急激に停止した力の反動でシンの体が前方に倒れ込む。
「……!?」
「大丈夫ですか?お嬢さん」
「!?」
 シンは短期間の間に二度息を呑んだ。どうやら誰かに助けられたらしいと理解する。シンはこわばった顔で怯えながら上を見上げると見知らぬ男性がシンのことを抱き留めてくれていた。唖然としてほうけているシンに男性はにこやかに微笑む。
「おや、俺の顔に見とれてしまったのか?無理もないけどな。俺はディアッカ・エルスマンだ。可愛らしいあんたのお名前は?」
「……っ」
 シンははっと我に返って首をぶんぶんと振った。声を出してしまったら男だとバレてしまうので喋れない。シンが急いでディアッカから離れてここから逃げ出す対策を必死で考えているとありがたいことに助け船が向こうからやってきてくれた。銀髪でおかっぱ頭という珍しい髪型の男性がディアッカに声をかけてくる。
「おい、貴様何をしているんだ。飲み物を取りに行くと言っておきながらナンパをしているとはどういうことだ?」
「イザーク、そう言うなよ。俺はナンパをしていたわけじゃなくてだな」
 ディアッカがイザークの方を振り向いて二人で話し出したので、これ幸いとシンはそそくさと二人から離れていく。壁沿いには立食用のテーブルや休憩用の椅子が用意されていたのでシンは人がいないところを目指してつんのめりながら壁沿いに足を早めていった。しばらく歩いてシンはこの舞踏会から抜け出せないことに早々に気付く。大ホールには何カ所か外へと通じる扉があったがそのどれもに自由に出入りできるわけではなかった。城門に通じる扉に近付こうとすると体が止まり自由が利かなくなってしまうのだ。だがお城の中にいる限りはどうやら自由に動けるし、城門へと通じていない扉ならば好きに出て行けるようだ。シンが踊り舞う人々の群れを逸脱して、ありとあらゆる出口を探して不格好に一人ホールをこそこそと徘徊した結果導き出した結論だった。その間にひとまずシンは自分が男だとバレて変質者だとののしられることもなく、王子から求愛もされないことに気が付いた。そもそも王子はシンがこのホールに着いた当初から今までずっとこの会場にはいないようである。自分の取り越し苦労に赤面しそうになるが、しかしそうなってくるとキラが自分をここに寄越した意図がまったく読めなかった。だが何にせよまだお城から出られないのであればシンは魔法が解けるまで大ホールを抜けて庭園で一人こっそり隠れていようと考える。きらびやかな舞踏会を出る途中でシンはふと姉のフレイが目に入り足を止めた。フレイは眼鏡をかけた優しそうな男性と楽しそうに踊っている。それを見てシンの顔がつい緩んで微笑みを浮かべた時、前方から何かが思いっきりシンの胸に激突してきた。
「いて!」
「きゃっ」
 柔らかいものがシンから跳ね返って吹っ飛んでいこうとしたのでシンはその物体を無意識に掴まえようと手を伸ばす。そしてシンはその物体を腕の中に捕らえた。
「なに…?」
 声が聞こえてきたのでシンが下を向くと、少し短めに金髪を垂らした少女がシンの腕の中で不思議そうにこちらを見上げていた。
「え!?えっと…」
「…ステラ…守ってくれた…?ありがとう…」
 シンはぎょっとして少女から体を離す。しかし少女はシンをじっと見つめたまま首をかしげた。
「でも…あなた…男の人…なんであなた…ドレス…着ているの?男の人…なのに…」
「ごめん!これには長いわけがあって…!俺は別に変質者とか痴漢じゃないから!君に何もしないし!本当だから、あのだから大きな声出さないで!」
「ステラ…大きい声…出してない…でも…あなたの声…大きい」
「あああもう!」
 動転したシンは少女の手をひっつかみ舞踏会の会場を猛烈なスピードで駆け抜けていく。ハイヒールで足がくじけそうになったがかまわずシンは大ホールから飛び出した。少女はシンに引っ張られながらもただシンについていく。空気を乱す騒がしい二人を周りの数人が睨みつけただけで二人は気が付いたら無事に庭園へと脱出できていた。




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