Tanzanight

『Long way Home』 第六章

6.

 朝の光にさらされたベッドで私が目を覚ましたとき。隣にいたはずの透の姿は既に無かった。

 まだ頭がぼぉっとしたまま身体を起こした私は、自分が何もつけずに胸をさらけだしている事に気づいて、慌ててかき寄せたタオルケットで胸元を隠す。そして何もつけていない状態の意味を思い出し…思わず顔が赤くなる。

 けれどいつまでもこのままではいられない。私はどこに行ったかわからない下着を目で探し始めた。

 そうやってしばらくごそごそ物音を立てていると、物音に気づいたのだろう、透が部屋の入り口にやってきて、戸口に寄りかかった。手にコーヒーカップを持って、視線は私ではなく窓の方向を向いている。

 格好はもう昨日の服を着ていて、無表情なところはいつもの透だ。

 「…おはよ。」

 何も言わない透に、私は改めて胸元にタオルを引き寄せながら小さく声をかけた。

 返事はすぐには帰ってこない。それからしばらくの間を置いて、透から、誰に言うともないつぶやきが届く。

 「昨日は…………。すまなかった。」

 「言わないで。」

 窓の方を向いたまま話す透に、叩きつけるように言う。

 「別に、謝られるような事じゃないから。そんな言い方、しないで。」

 しばらく間をあけて、透が答えた。

 「ああ…。そうだな。わかった。」

 それから透は手に持ったカップからひとくちコーヒーをすすると、窓を向いたまま続ける。

 「香澄。コーヒー淹れたんだが…、飲むか?」

 「うん。…飲む。」

 「分かった。ちょっと待ってろ、持ってくる。」

 「あ、いいよ。私もそっち行くから。」

 歩き始めた透を追いかけるように慌てて言った私に、透は背を向けたまま「分かった。」と言って片手を上げ、台所へと消えていく。

 それを見送り、私は今度こそ下着を探し始めた。

.

 着替えた私が居間に入ると、ちょうど透がコーヒーポットを手に台所から出て来たところだった。

 テーブルの椅子へ座った私の前に、透がカップを置いてコーヒーを淹れてくれた。熱いカップを両手で持つと、そこからいい香りが沸き立って、まだぼやけていた私の頭を端からゆっくりと起こしていく。

 「珍しいね。透がコーヒーなんて。」

 なんとなく言ってみる。透は緑茶党だから。

 それに対して「変か?」と片眉を上げて聞く透に「そんなこと…、無いけど。」私は答えた。

 私だっていつもと違うものを飲みたい時がある。そう、それはいつもとは違う気持ちの時だ。

 「俺だってたまには…、そんな気分の時もある。」

 私の心の声が聞こえたかのように、透は横を向いたままぼそっと言った。

 その姿を眺める。

 私と反対側の椅子に座る透。コーヒーカップを手に持ったまま、窓の方を向いて何も話そうとはしない。私もまだ熱いコーヒーを少しずつ飲んでいた。そのまましばらくの時間が過ぎる。それから、私は声をかけてみた。

 「…いい、天気になったね。」

 「ああ…。」

 「…もう、そろそろ春だね。」

 「ああ…。」

 「今日は…、洗濯に丁度いい日かな…。」

 「ああ…。」

 気の無い返事ばかりでさすがに私がむっとし始めた頃になって、やっと透が話しだした。どうやら上の空だったのは何を言うか考えていたかららしい。

 「香澄、昨日のことなんだが…。」

 「だからいいって。」

 透の言葉を、私の声がさえぎる。

 「だがな、そういうわけには。」

 身を乗り出して透が言う。透にしては珍しく慌てた感じだ。

 それを正面から見据えて、私は静かに言った。

 「心は、入ってなかった、って言うんでしょ? 心の一番奥には、別の一番大事な人がいるから。」

 その言葉に、透がうっ、と息詰まる。それを見て、私は目を伏せた。

 「いいの。それは、私も同じ……だから……。」

 手元のカップをもてあそびながら、私の視線は伏せたままで続けた。

 「でも、私はこれで良かったと思う。何か、切羽詰まってた気持ちが消えて無くなったから。どこかで思ってたんだ。自分はもう人間じゃなくなったんじゃないかって。誰にも知られず、人間と違うものになっちゃうんじゃないかって。……怖かったよ。あの時鏡で自分の眼を見てからずっと、これから変わってしまう自分を想像して、それが頭から離れてくれなくて、気が狂いそうになってた。」

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 ひと口、カップに口をつけた。ちょっと唇を浸しただけで言葉を続ける。

 「でも…私はまだ人間だった。あなたはあの眼を見ても逃げなかったし、構わず受け入れてくれた。みんな、あなたのおかげ……。」

 話しながらふと視線を上げようとして、自分の言った言葉で昨夜のことを思い出してしまい、慌ててもう一度目を伏せた。改めて思い返してみると気恥ずかしくて透と目が合わせられない。

 ひと口コーヒーを飲んで、気持ちを落ち着ける。

 「でも…夕べ…、あなたと触れ合った事で私は私の気持ちを確かめることが出来たし、あなたの気持ちも感じることが出来た。あなたの事は好きよ、透。でも、私にとって一番大切なのは…。」

 「わかってる。…お互い、面倒な相手に惚れたもんだ。」

 「ホント、面倒な相手よね…。ふたりも放っておいてドコ行ってんだか。」

 「…すまない。まひるに一番近かったのは香澄だからな。いなくなって一番辛いのも香澄なんだ。だからこそ俺だけで見つけようと思っていたのに。お前にはまひるの事だけ考えていて欲しいと思っていたのに。実際には、お前が大変な事になっている事すら気づかずに……。」

 「だからいいのよ、もう。それにまひるが男ってわかった時は、透の方が。」

 「まぁな。俺は…まひるが男だと言われたときの、あのショックを忘れない。こう言っちゃ難だが、多分あの時は…お前や他の誰よりも、俺が一番辛かった。」

 「そうだよね。透、まひるのこと好きだったんだもんね。」

 そう言って、透に微笑みを向けながら反応を見る。透は片目だけで私をにらんでいた。

 「知ってたのか?」

 「わからない訳無いでしょ? まあ、まひるは気づいてたか怪しいけどね〜。」

 私の言葉に、透が深くため息をついた。

 「まぁ〜、まず100%気づいてないな、あいつなら。まったく…、自分が全ての原因になってるってのに、アイツはいったい、どこで迷子になってんだか。」

 「絶対、妙なトコに迷い込んでるわよ。きっと。」

 「そーゆーとこはホント天才的なんだよ。なんせ」

 「まひるだからねぇ〜。」

 「まひるだからなぁ〜。」

 ふたりの声がハモる。私たちは顔を見合わせて笑った。

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 そしてひとしきり笑った後、私は言った。

 「でも、ねえ透……。」

 「なんだ?」

 「夕べのこと…。まひるに、言う?」

 ぶほぉ! っと透がコーヒーを吹き出した。そしてそのままゲホゲホと咳き込む。私は黙ってテーブルの上にあったティッシュの箱を差し出し、透が辺りを拭く様子を眺める。

 それを眺めたまま私は続けた。

 「帰ってきたとき、もしまひるがすっかりオトコな気持ちになってたら…、私に手を出す奴は許さないと思うんだけ……ど?」

 ちょっと意地悪な気分になっている。おおよそ透らしからぬ格好良さが続いているので、からかいたくなったのかもしれない。

 「手を、出そうと、したって、俺が香澄に勝てるはずがないってのは、アイツも、良く知ってる、こと、だろうが。」

 まだむせている透はちょっと涙目のまま途切れ途切れに言う。

 「そうかな〜? そりゃ学園でワイワイやってた頃はそうだったかもしれないけど、プエルタの時の透は反則ってくらい別人だったからな〜。」

 「香澄……。何怒ってるんだ?」

 「別に?」

 目が笑っているかもしれない私を見て、透がため息をつく。

 「言う……しか無いだろうな。事実は事実だ。弱気になってるお前の、弱みに付け込んでせまった俺が悪い。アイツの好きなようにさせてやるさ。」

 横を向いたままそう言う、どこかちょっとふてくされている様子の透は妙に可愛かった。

 だから、私も思ったままに言った。

 「そんな事無いよ。私にとっても……きっと昨日は必要だったの。さっきも言ったでしょ。昨日まであんなに荒れていた私が、今こんなに落ち着いていられるのは……。あなたの…おかげ。」

 「まひるに…言っていいのか?」

 いつの間にかこちらを向き、透は真剣な顔で私を見ていた。あれからいくつ透の表情を見つけた事だろう。学園に居た頃はほとんど1つの顔しか見なかったというのに、今ではこんなに違った表情を持っていることを教えてくれる。

 そんな表情を見せてくれた透だから、私の決心も正直に言うことにする。

 「言うよ。私の口から言って、まひるに…謝る。」

 コーヒーのカップを両手で包んで、「うん、謝る。」小さい声でもう一度言う。うん、今の言葉は本当だ。私はきっと言う。まひるに言える。自分の中でそれを確信して、顔を上げた。眼の前にいる透の顔を見て言う。

 「そして、全部謝ってから…本当の本当に好きなのは、私にとって本当に大切なのは、ひとりだけ、まひるなんだって言うんだ。誰でも無い、私に一番必要なのは、まひるしかいないって。それで、わかってもらう。」

 言ってから「うん。」と自分の言葉にうなづく。まひるなら、きっと分かってくれる。そう思う。

 その時、妙な気分に気づいた。もしかして私、まひるに言いたがってる? ……そうかもしれない。私は早く言いたい。まひるに会って、この事を伝えて、まひるがどんな顔をするか見てみたい。きっと、これまで見ていたのと違う、また新しいまひるを見ることが出来るだろう。それがどんな表情なのかは分からないけれど、それが見られるなら怒られたって構わない。その時は精一杯抱きついて、抱きしめて、私がまひるのものだって事を思いっきり分からせてやる。

 決心はついた。楽しみも出来た。私は手で包んでいたカップのコーヒーを飲む。コーヒーはもうぬるくなっていたが、それはそれで美味しいと思った。

 「なぁ、香澄。でも昨日言ったことは本当だぞ。」

 私がコーヒーを飲み終わるのを待ってからそう言った透の顔は、真剣でも真面目でも、もちろんふざけた顔でもなく、どこか自然な表情になっていた。初めて見るその表情が珍しくて、ついこんなことも言ってみる。

 「どの話? 私のこと何もしないとかいい身分だって言った事?」

 「茶化すな……。」

 「分かってる。そばにいて、守ってくれるのよね。」

 「ああ。」

 「まひるもね。」

 「ああ。」

 「ひなたも?」

 「無論。」

 「そだね……。」

 私はカップを手に取ると、何も無いカップを傾けて飲む振りをしてみた。

 「帰ってきたら、いろいろ大変だもんねぇ。放っておいたら余計な事しでかすのは眼に見えてるし。」

 「そうだな…。だが今度こそ、しっかり守ってやらなけりゃな。ふたりとも。」

 「守られたりして?」

 「そんときゃそんときだ。でも、普通に生活したいと言った時は、俺が全力で助けてやる。……ふっ、どんな手を使ってもな。」

 そう言ってニヤリと笑う透を、私は冷たい目でにらんだ。

 「だ〜から何で、そこで楽しそうな顔になるのよ…。」

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 「それで香澄……。」

 それから軽い朝食をとったあと、私がいれたお茶をふたりで飲んでいたときだ。透が突然真面目な顔をして話し始めた。「何?」とお茶のカップを両手で持って飲もうとしていた私に透が言った。

 「その眼のことだ。」

 カップを両手で持ったまま身体がビクッとした。視線がカップを向いたまま凍りつく。当然、まだ完全に割り切れたわけではない。その様子をじっと見た上で、透は続けた。

 「それ…。まひるの眼とは、ちょっと違うみたいだな。」

 えっ? と顔を上げる私。

 「模様があそこまで細かくはないし、反射も少ない。色の深みも違う。どちらかというと、浅く表面に現れているだけな気がする。」

 「そうなの?」

 私が聞く。もしかしたらきょとんとした顔をしていたかもしれない。

 「もちろんはっきりとは分からない。だが、アレと雰囲気が違うのは確かで……、何というか、存在感が希薄な感じを受けるんだ。だから、少なくともソレがそのまま天使になる前兆とは思えない。時々消えたり現れたりする点もまひるのケースとは違いがあるから、もしかしたら天使と接する事が多かいと現れる何かの症状なのかもしれない。まぁ、憶測に過ぎないから気休めにもならないが……」

 自信が無いように終わりが小さくなる透の声。それを、追いかけるように私は言った。

 「ううん、いいよ。自分じゃ気づかなかった。……ありがと。」

 思えば、自分では2回しか見たことがないこの眼を透は何度見たのだろうか。

 天使の眼に似た瞳。それが意味する可能性は、いつ化け物に変わってしまうかもわからない危険。いくら望んでも普通の生活から拒絶されてしまう恐怖。そして、望むと望まざるとに関わらず、いつまでも生き長らえなければならない宿命。でも……。

 「そっか。」

 何気なくつぶやいた言葉だったが、透には意味のある言葉と聞こえたらしい。

 「…残念、か?」

 私の顔を覗き込むようにして透が聞く。私は

 「ううん別に。」

 と答えてから、少し間を置いて付け加えた。

 「んん〜〜。ちょっと、残念かな?」

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 その日の午後、さらさらに干しあがったシーツを畳み終わった私は、窓辺に立って窓の外に目をやった。

 外の景色はもうすでに春になっている。

 あのあと透はパソコンでメールをチェックして何本か電話をすると、昼前に出て行った。その顔には昨日までの焦燥感は見えない。以前のままの、何を考えているか読みとれない、ひょうひょうとした顔の透に戻っていた。

 「少しは…役に立てたのかな……。」

 ああいう時の透なら絶大の信頼がおける。私はそう確信していた。いつもの透に戻ればもう大丈夫、任せられる。特に根拠も何も無いのだが、そう思っていた。

 また外を見る。とてもいい天気のなか、景色は眼に優しく薄い新緑を運んでくれている。

 ふと、少しだけ開いていた窓から風が吹き込んできた。その流れに身を任せ、私は目を閉じる。眼を閉じたことでさまざまな音があることがわかった。樹木のざわめき、葉のすれる音、遠くから聞こえる子どもの声。気ままに吹く風にさえ音がある。それらはみんな、春の音だ。私はまた、まひるの声を思い出した。もう数え切れないほど思い返しているが、その度にまひるは私の心を暖かく、そして切なくしてくれる。

 私は、まひるの声が聞こえないかとさらに耳を澄ました。

 その時。

 「トクン。」という音が聞こえた。私はハッとして目を見開き、またすぐ閉じてその音に耳を傾ける。

 「トクン。」

 聞こえた。

 「トクン。」

 とても弱々しいが、規則的な音。

 「トクン。」

 身体の奥から、響いてくる。

 「トクン。」

 私は、自分のお腹を見ると、そっと手を当てた。

 「トクン。」

 その手の下から、音は聞こえてくる気がした。

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 あれからまだ3ヶ月。普通ならとてもそんな時期ではない。

 でも、何故か私の中には確信があった。そして、まひるとのつながりが、たったひとつでも出来たことが…、理屈抜きでとても嬉しかった。

 一瞬、頭をプエルタの天使の姿がよぎる。

 だが、私は頭をぶんぶん振ってすぐにそのイメージを追い出した。

 そしてあの、まひるの笑顔を思い浮かべる。

 あの優しい笑顔、どこまでも突き抜けて明るい微笑み。

 たとえ、結果的にどんな子が生まれてきたとしても構わない。でもこの子はまひるの子なのだ。あの春の太陽のような、まひるの血を受け継いだ子……。

 「あ、テーブルの椅子、小さいのひとつ買っとこうかな……。」

 そう言いながら、私は窓に手を触れて、外を眺めた。春の景色の中、どこかにまひるの笑顔が見える気がした。

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 気が付けば、

 季節はすでに春。もう雪を目にすることもない。

 祭りに似た熱気は日常の中で拡散され

 やがては空しさと共に、記憶の片隅へ沈みゆく。

 全ては日々の営みへと帰っていく。

 ひとつの笑顔を除いて。

 まひるはいまだに行方不明のままだ。

 消息は誰も掴めていない。

 ひなたもまた、プエルタでの出来事を境にして姿を消している。

 主のいなくなったこの部屋には、今は私が住んでいる。

 いつか必ず、ふたりが帰ってくると信じて。

 雪の陰がベランダを過ぎる。

 私は窓の外へと目を向けた。

 「あ・・・。」

 手を伸ばせば届きそうな所を。白く小さなものがユラユラと落ちていく。

 「雪・・・?」

 そんなはずはない。今はもう・・・

 私はベランダに駆け寄る。

 外は春の陽気に満ちている。

 それなのに、次々と雪が舞い降りてくる。

 「そんな・・・」

 それは雪ではなかった。

 私はスリッパのままベランダに出ると、欄干から手を差し出した。

 白いものは鳥の羽根だった。

 視界がまばゆい光で満たされる。

 懐かしい笑顔が、私を出迎える。

 「まひる・・・」

 地上五階のベランダで。私は手すりの上に立ちあがった。

 羽根が乱れ飛ぶその先へ。

 まひるに向かって両手を伸ばす。

 「・・・お帰り」

 例えこれが幻でも、私は構わない。

 私は何もない空間へ、足を踏み出した。

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 身を切るような静けさと

 晴れることのない霧に守られ

 あるがまま、そこにあり続ける森

 妖精の森の奥深く

 壊れた天使がいると言う

 輝きを失ったその瞳に

 微笑みが戻ったのかは

 誰も知らない

   (ねがぽじ)香澄ENDより引用)

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