第一則 趙州無字
文章が長いと思われた方は、ダイジェスト版 をご覧ください。
無を素直に「何もない状態」だとしたら、「何もない」とはどういうことでしょう。
科学的に考えた場合、本当に何もない状態を得ることは難しいことです。
常識的に考えて想像しやすいのは真空、宇宙空間の空気も星間物質もない部分でしょう。
しかしまだ空間そのものがあります。
禅の目指すところは悟りである、と言ってもよいでしょう。悟りとは何か、ということは難しい問題ですが、
敢えて簡単に言うと人間としての安心、心の安らぎでしょう。
犬の足跡: 以上は真面目な話ですが、蛇足(犬足?)として、雑談を追加します^−^
僧が問うた。犬にも仏の性がありますかと。 和尚が答えた。「無」と。
無門和尚の解説:禅を研究するには、師の設けた関門を通らねばならない。
真の悟りを得るには心を極め、心を越えねばならない。
悟りを得れば山野草木の全ての精神を理解することができる。
さあ、考えてみよ、師の関門とは何か。これを名づけて禅宗無門関と言う。
これを通るものはこの第一則を提起した和尚のみでなく、歴代の師と手を取り合い、
同じ目を通して物事を見ることが出来、同じ耳で聞くことが出来るだろう。
素晴らしいことではないか。さあ、この関門を通ろうではないか。
そのためには全身全霊を以ってこの関門に取り組み、無の一字になりきって昼夜を越えて考えてみよ。
それは虚無の無ではない。有無の無でもない。熱い鉄の玉を呑み込んだように、吐こうとしても吐き出せず、
これまでの善悪の判断を越え、自分の内と外が一体となる。失語症の人が夢を見たように、
他人に語ることが出来ず、そうなれば天を働かせ地を動かし、関将軍の大刀を得たごとく、仏に会っては仏を殺し、師に会っては師を殺し、生と死の自由を得、どのような世界に生れようと自由自在の生涯を楽しめるであろう。
ではどのようにこれに取り組んだらよいのだろうか。通常の考え方を捨てて、この無の一字になりきれ。
もし絶え間なく取り組み続けることができれば、やがて蝋燭がぼっと灯るような心境となるであろう。
第一則は非常に短いのですが、無門和尚は最も長い解説を付けています。
これは一言で言えば、無とは何かを真剣に考えてみよ、ということでしょう。
「無の一字になりきれ」とは何も考えるな、ということではないと思います。
それなら眠り込んでしまえばよいが、それは禅では否定されることです。
無というものを真剣に考えることによって物事の本質、自分の心の本質を見、
古来の禅の和尚達の境地に達すると言っています。
好奇心一杯の子狐としては、まずは無とは何かということを常識的な理屈で考えることから始めてみましょう。
空間には重力の影響により曲がったり縮小したりする「特性」があります。
また空間自身が素粒子の素がびっしりと詰まった海であるともいいます。
空間自体の揺らぎが粒子と反粒子のペアを産み出すといわれます。
また、かつてアインシュタインが生涯最大の過ちと言って撤回した宇宙定数の概念に近い、
空間に付随する膨脹する力が存在するそうです。
ではこの世の外はどうでしょう。ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりがあったとして、
宇宙が一点から爆発的に膨張したとして、その外側には何があったのでしょう?
宇宙空間自体は閉じていて、外側はなかった、というなら、ビッグバンの始まる前は?
これらの問いに対し現在の宇宙論は一通りの回答を用意しています。
しかし更にその外側はと問えば、限りがありません。
あるところから先は神の領域とでもしておくしかないでしょう。
現在ではその「神の意志」は、ビッグバンを超えた更に外側へと追いやられています。
しかしどこまで行っても「外側」は存在するでしょう。無とは、その外側を指すのか、
それとも全てを取り去った後に残る、または残らない状態を指すのでしょうか。
禅の目指す無とは、それを考えることなのでしょうか。また、何のために考えるのでしょう。
禅が最も嫌うのは安直な理解ではなく、資料を積み重ねた机上研究でもなく、
人間の心の乱れ、悩み、不安心でしょう。その解決策は、単純に心を無にし、
全てをあるがままに受け入れ、自分の心の自由な動きに従っていればよい、ということではないでしょう。
仮にそれで安心が得られたとしても、その程度の安易な安心は、病気や事故等の大きな外乱、
妬み、憎しみなどの些細な外的要因があっても吹き飛んでしまうでしょう。
何が起きようと乱されない確固たる安心、それこそが禅が求めるものなのでしょう。
その第一則が 「無とは何かを考えよ」 という命題でしょう
。自分が生まれる前、自分が死んだ後、それを時間と空間の大きな「無」として考えてみよ、ということでしょう。
無門関の著者、無門慧開が解説で述べる無への取り組みの姿勢は、凄まじいほどの熱意に溢れています。
この則は、短くてかつ壮大な無門関全四十八則の序曲なのでしょう。
無、ない、ということはこのテキストを貫く通奏低音となり、繰り返し現れます。
あるときは無という状態を示し、ない、という否定にも使われ、有と無の二元論を否定した大きな姿、
そして全てを包み込む、虚無ではない大いなるものとして様々に表現されます。
無とは何か、仏性とは何か、という問いは、この世とは何か、自分とは何かという問いなのでしょう。
無門和尚はまだここでは答を出せとは言っていません。和尚は無門関全則でそれを追求し、
最終第四十八則でその答を示している、と私は思います。
それでは、以下子狐として、無門和尚のテキストを順を追って読んで行きましょう。
出てくる写真は、一部引用の記載のあるもの以外はほとんど私が撮影したものです。
何人かの方々からご質問を受けました。「何故犬が出てくるのですか?」「4匹もいて喧嘩しませんか?」
4匹は同時にいたのではなく、我が家と妹の家で飼っていたワン達の古い写真です。
犬が出てくるのは、第一則が「犬にも仏性があるか」というのと、写真が沢山あったので。
ミニダックスは人の言葉をほとんど理解し、命令にはちゃんと従うくせにいたずらっ子で、芸を仕込まれることは嫌いのようですが、頭がよく、何でも判ったような顔をしてるのが、このテキストの案内には適役と思いました。各ページの最初に出てきますので、よろしくお願いします!