第二則 百丈野狐

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説法の後、いつも残っている老人がいた。 和尚が聞いてみると、昔住職をしていたが、ある日修行僧に、悟った人は因果の世界に落ちるかと聞かれ、 因果には落ちない、と答えたらそれから五百回も野狐に生まれ変わってしまったという。

老人は改めて和尚に、悟った人は因果に落ちるか、と聞いた。 和尚は因果はくらますことはない、と答え、老人は悟りを開いて辞した。

食事の後和尚は山へゆき、野狐の死骸を示し丁重に葬らせた。 夜になって和尚が弟子達にこの話をすると、ある僧が、 その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた。 和尚がもっと近くへ来い、教えてやろうというと、その僧は進み出て和尚の横面を殴った。 和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った。

無門和尚の解説:因果に落ちないと言ったら何故野狐に堕ちたのか。 因果をくらますことはない、と言ったら何故野狐を脱したのか。 このことが見通せれば、この老人は五百回の野狐の生を風流に送ったことが判るであろう。


世の中は原因があって結果があります。ある状態は原因によって説明できると考えられます。
ある科学者は、十分な数式とデータを揃えれば世の中の全ての事象を記述し予測することが出来ると言いました。 人間も生物も全て因果律に従う自動機械にすぎないと言った人もいます。

仮に人格と意識を人工的に創生出来たら、そこに生ずる考え、思想、行動は、 設計し製造した過程で説明出来るのでしょうか。 それには数式とデータで示される因果関係だけで十分なのでしょうか。 人間の心の動きも原因と結果で解釈出来るものでしょうか。

修行僧の質問は、悟りを開いた人は因果の束縛から離れ自由になるのか、 それとも人間の本質はやはり因果律に従うのか、ということでしょう。


人間は単独では成立していません。 もし生まれたままの赤子を隔離した施設の中で光も音も触覚も、全く刺激を与えないで培養したら、 その子は言語を覚えることはなく、言語で考えることはないでしょう。 個人の考えとは、それまでに刺激として入力された情報を元に組み立てられています。 何に影響され、何を考えるかは、それまでに受けた刺激と環境が大きく影響しています。 自分の考えとは、自分というプログラムに入力された刺激に対する出力と考えられます。

では、もし自分と全く同じクローン人間を作り、自分と同じ環境を再現すれば、 自分と同じ思想、考えを持つものを複製できるでしょうか。

一卵性双生児を優先的に入学させ、教育によってどのように変化するかを実験した有名大学がありました。 過去の独裁者と同じ素質を持つ幼児たちを選び出し、全く同じ環境を人為的に与え、 その独裁者を再現しようとした小説がありました。

和尚と同じ資質を持った幼児というだけではなく、悟りを開いた和尚のクローンを作り、 同じ条件を与えたら、同じ悟りを持つ和尚が出来るのでしょうか。 和尚といえども因果の法則から逃れられないのでしょうか。




現実には、いかに多数の数式を用意しても、 たとえ宇宙の全素粒子のひとつひとつに運動方程式をあてはめることが出来たとしても、 事象の予測を厳密に行うことは不可能とされています。 それには不確定性原理、カオスと複雑系などが関連してきます。

これは素粒子の速度と位置の不確定性、ブラックホールの縁から脱出してくる光、 果ては巨大宇宙構造の誕生、宇宙の均一性からの揺らぎにまで及んでいます。 それだけではなく、現在の宇宙そのものが不確定性による対象性の破れの結果だという説もあります。

宇宙の始まりとされるビッグバンでは、通常の物質と反物質が同じ量だけ産み出されたといいます。 いずれ物質と反物質はまた結合して大きなエネルギを出して消滅します。 しかし、ごく僅かな不均衡により反物質の方がわずかに少なく、僅少の通常物質が残った。 僅かと言っても我々の基準からすれば膨大な量であり、それが現在の宇宙を形成した、 という学説があります。

偶然や不均衡などといった予測できない量に我々の存在を委ねることは、 穏かではないと感ずる人は多いようです。神はサイコロを振らない、と言った著名な物理学者がありました。 しかし現代の科学では不確定性、不確実性を否定することは出来ないようです。

人間の脳内の意識活動に関しても、この不確実さが影響を及ぼしているはずです。 仮にクローン人間が完成しても、 バイオチップを多用した人間の脳と同規模のコンピュータの中に人間に相当する人格が形成されたとしても、 そこに生ずる心の動きは基本となる物理学の因果率に従うと同時に、 不確定性とカオス理論による奔放な不確実さ、自由度を持つでしょう。 またそうでなければ、人格が形成されたとは言えないでしょう。



この和尚は、その老人がもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた僧に、 近くへ来い、説明してやろう、と言ったとき、 その僧が自分の頬を張りとばすという行動に出ることを予測したでしょうか。 そこに因果が存在したでしょうか。

頬を張りとばすのも因果であると考えてもよいでしょう。 もしその老人が正しい答をしたらどうなっていたか、というこの僧の問いも因果の問題です。 しかしそのときの状態によりその答は決まり、また変わります。それが因果です。 因果とは予定通りに答が決まる単純な法則ではありません。そこには原因と結果があり、 また同時に不確実さを含む無限の可能性があります。

この僧は、その老人はどうなっていたか、の答を聞きに行くことで因果に従う姿勢を見せながら、 同時に和尚の頬を殴ることで因果の広がりの可能性を示そうとしたのでしょう。 因果を無視せず、それを自分のものとして自由に働く。それをこの僧が理解していることを感じ取り、 和尚は、ここにも達磨が一人おったわい、と喜んだものと思われます。

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犬足:犬とは別に、屋根のない車の写真もいくつか出てきます。これは私の以前の愛車です。
いつでも、どこでも、自由に走り回れることが楽しかった。ロードスター乗りは四季の移りを風で知る、とも言われました。苦手なのは真夏だけで、真冬でも幌を下ろして走っていました。

因果に捕らわれない自由、とは全く次元の異なる話ですが、私にとって大きな喜びでした。 個人の喜びは、その器によって決まる、とも言われます。小さな喜びで満足する人は、大きな喜びを知らない、とも言えますが、小さな喜びを見出せない人は、大きな喜びも^−^