第三則 倶胝堅指
ある和尚は何か質問を受けるといつもただ一本指を立てるだけであった。 その寺にいる小僧は外の人に、和尚はどんな法を説くのか、と聞かれると同じように指を立てていた。 和尚はこれを聞いて小僧の指を切り落とした。小僧は泣きながら退出しようとすると和尚が呼んだ。 小僧が振りかえると和尚は指を一本立てた。小僧ははっと悟った。 この和尚は臨終に際し、この一本指の禅は祖師に習ったが一生使って使い切れなかった、と言った。 無門和尚の解説:この和尚も、小僧も、悟りは立てた指にあるのではない。 この処がはっきりとわかったなら、この和尚も小僧も、お前自身も、一串に突き通ってしまうだろう。 |
この課題は三つの部分からなっていると思います。何事にも指を一本立てて答えることの真意は何か、 何故小僧は指を失って悟ったのか、最後に、一生使って使い切れなかった、という文が加えられている意図は何か。 和尚に真剣に何かを尋ねて、黙ってすっと指を立てられたらどんな感じがしますか。 それだ、そこだ、と指摘されたことになるでしょう。 その質問、その課題、提起してきたお前自身が物事の根本なのだ、課題を出している状況そのものが答なのだ、と。 自分の問いは大きな反響と共に自分に戻ってくるでしょう。 「そこだ!」という反響、単なる差し戻しではない、 増幅された、大きな新たな課題としての再提起がこの和尚の答であったと思います。 小僧はただ立てられた指の形だけを見、それが一を表している、 一が全ての根源だ、宇宙の中の最高のものを示す、とだけ思って満足していたのでしょう。 その指を切り取られ、痛さだけに支配されて泣いているときに和尚からすっと指をたてられました。 そこだ、今痛がっているお前、言葉を超え、理解を超えて痛いということだけしか感じていないお前、 それが本質なのだ。それが何かを考えてみよ、と突きつけられて小僧はやっと指を立てる意味を悟りました。 指は一を示していたのではありません。本質は「そこ」にあるのでした。
この和尚は臨終に際し、祖師に学んだ指一本の禅を一生使って使いきれなかった、と言いました。
和尚自身も常に、指を立てている自分、本質を求め続けた自分とは何かを考えていました。
そうして今死んで行く自分とは何か、その後に訪れる「無」とは何かを完全には悟ることが出来なかったのでしょう。
容易く満足する和尚であったら、自分の死に行く際にもじっと指を立て、
ここだ、これが死だ、と自分自身を見詰めつつ息を引き取ったでしょう。
犬足:何か思いつくと中指を立てる先輩がありました、と本の原稿に書いたら出版社の方に何だか判らないと言われ削除しました。
ゆうきまさみさんのコミックに出てくるのですけど。 |