第四則 胡子無髭

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ある和尚が言った。「何故達磨には髭がないのか」

無門和尚の解説:参禅は実際に行なわねばならない。悟りとは実際に自分が悟らねばならない。 達磨には実際に会ってみなければならない。しかし実際に会うと、そこに自分と達磨という対立が生じてしまう。


数々の絵で示されているように、達磨には立派な髭があります。何故それをないというのでしょうか。 また無門和尚が、ないという理由を言えと迫る意図は何なのでしょう。

無、ない、ということは物理的に存在しないということだけを指すのではありません。 本人が意識しないものはその本人にとって存在しません。人の心を動かし、乱れさせ、不安を生ずるものは、 その人にとって存在するものでしょう。達磨にとって髭は存在しないものなのでしょう。

但し自分が意識していないというだけでは十分ではないのです。 誰かに「お前、髭伸びてるぞ」と言われ「え」などと驚くのは無知であり、髭がないとは言いません。 「俺は髭なんか伸ばしてない」と反対し我をはることでもありません。お前すごい髭だな、と言われたら、 「ああ、そうかい」と答えるがそれっきり気にもとめない、とでも言いましょうか。


物事を解決する最も簡単な方法は、「忘れてくれ」「無かったことにしよう」ということでしょう。 煩悩も俗生のしがらみも、ただ捨て去り無かったこととして忘れ去ることで一応の安心は得られます。 髭をなくする簡単な方法は剃ってしまって生やさないようにすることであり、 物理的な存在を根底からなくしてしまうことでしょう。 都合の悪いことは全て存在しないものとして扱えればこんな簡単なことはありません。

しかし、それは無理な話です。何事も単純にデリートし、ごみ箱を空にしてしまえるものではないでしょう。 もし何でも削除してしまうのが理想なら、昔精神病院でされたというロボトミー手術を受け、 前頭葉を切除して判断に悩みのない従順で穏かな人格を得ればよいでしょう。

無心の自然体といっても何も考えずに放心状態でいるのでは、入ってくる外的要因によっては心の乱れ、 煩悩、悩み、不安などを生じ、延いては人格的破壊までに達する場合があります。 それは自分で気がつかなかった髭を他人に指摘されるのに似ています。

達磨に髭がない、とは、禅の達人となれば物理的な有無を超えた有無の認識が可能である、という意味でしょう。 達磨の髭に対する認識は髭の物理的存在には左右されません。自分の有無の判断は外的要因から独立して確立されています。




無門和尚がこの則をとりあげるに際し「何故達磨には髭がないのか」と疑問形のまま放置しているのは、 心の持ちようによって何事も存在を無視できるということをそのまま肯定しているのではないのだと思います。 全ての存在を無視できるようになることが禅の目的ではなく、全ての存在を受入れられるようになってこそ、本当の無の世界が理解出来るのでしょう。忘れ去り消し去るのでなく、自分に対する影響を制御できるようになることが目的だと思います。

何故達磨は髭が無いとするのでしょうか。では達磨に有るものは何でしょう。そこに有無の判断基準があるのでしょうか。 無門関は最初から大きな問題を提起しています。この段階では無門和尚は答を提示していません。 自分で実際に取り組み、自分で答を見出さねばならない、それは達磨の答とは異なったものになるだろうと解説しています。 我々の学ぶべき課題はこれからです。



犬足:達磨には何故鬚がないのか、という課題に対し「達磨本人は鬚のない人だったのだろう」と言われた方があって愕然としました。 王様は裸だ、と指摘されたようなもので、達磨には鬚があるもの、という固定観念を打ち破った新鮮な指摘だと思います。 これを基にして第四則は別の解釈が可能でしょう。そこでタイムマシンに乗って達磨に会いに行って見ました。

 達磨の鬚はヒゲヅラ(付け髭)だった。
 子供の頃に着いたので、鬚はまだなかった。
 心境の変化があったのか、全部剃ってしまっていた。
 ほとんど透明な白髪の鬚は、光の角度によって見えなくなった。

 鬚どころか達磨には目も鼻も口もなかった。
 鬚のように見えるが実は全く別の器官であった。
 鬚の一本一本が蠢きだし、八方へ飛び去って行った。
 禿頭に突然毛がふさふさと伸び、鬚は引っ込んでしまった。
 ふと横の窓を見たら、映っている達磨の顔には凄い鬚があった。
 鬚の一本づつが 「ひも」 構造になっており、第4〜11の次元を持っていた。
 鬚が、ごうっ、と拡がって全てを闇に包み、無だけが残った。

これは単なる言葉遊びですが「物理的存在を超えた有無の認識」とはこのような荒唐無稽な発想も許容する自由な心ではないかと思います。 (上の絵は蛾の仲間、クロハネシロヒゲナガ)

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