第五則 香巌上樹

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人が木に登って口で枝を咥えて手足を離してぶら下がっているとき、 下の人が「達磨がインドからやってきた真意は何か」と聞いた。 答えなければその質問を避けたことになるし答えれば木から落ちる。どうしたらよいか。

無門和尚の解説:立て板に水の弁舌があったとしても役に立たない。仏教本を説いてみてもまた役に立たない。 このことがしっかりと判ったなら、死んでいるものを活かし、生きているものを殺すことが出来る。 もし答えることが出来ないというのなら、弥勒菩薩に聞いてみるがよい。


「二者択一を迫られたら注意せよ。答はその中にはないことが多い」とは、 マネジメントの講座でよく指摘されることです。ここで無門和尚は、答は目の前にある選択肢の中にはない、 物事を既存の知識の範囲だけで捉えてはいけない、と言っているのだと思います。

無門和尚はここまでの4則で、無を提起し、因果に触れ、本質を見よといい、 それを自在に認識することを提唱しました。いよいよこれから具体的に仏性、本質とは何かを語り出します。 その前に、自分の答を、突きつけられた選択肢、これまでに得た知識と経験の中に求めてはいけない、 その範囲を超えて自分の答を求め続けなければならない、と言っているのでしょう。


禅の公案はその答に意義があるのでなく、それを考えることと、公案を通じた師との交流にあるのだとも言われます。 その意味ではこの無門関は師に指導を受けるための素材であり、公案だけを単独に扱うことは意味がないのかもしれません。

しかし無門和尚もこれらの公案に対し答を求めて真剣に考え、和尚なりの答を出していたでしょう。 私は無門和尚が見つけただろう答は何かを推定してみようと思います。その鍵は、和尚自身の解説と共に、 この公案の並べ方の中にもあるでしょう。

無門関48則は、著名な禅の公案、伝承などの中から無門和尚が適切と思ったものを選んで、注釈を加えたのです。 無門和尚は自序の中で、集めてみたら48則となったので編集し無門関という名前をつけた、 初めから順序を考えたわけでない、と言っています。

しかし無門和尚によって厳選された48則はそれぞれが単独にあるのではなく、 和尚の意図する禅の真髄を示すものとして編纂されているはずです。私は単なる素材集ではない、 無門関という一つのテキストとして解釈してみたいと思います。そして、数ある古来の公案の中から、 この48則だけを抜き出して編纂し解説をつけた無門和尚自身の考えを読み取るように努力します。

この則は、咥えた枝を離すか離さないか、どうやったらそれ以外の方法で 達磨がインドからやってきた真意を伝えられるかということではなく、 「これからいろいろ問題を出すが、答は与えられた条件の中にはないのだ。 自分自身でしっかり考えよ」という無門和尚のメッセージとして受け取りたいと思います。



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犬足:選択を迫られるケースは国際ビジネスではよくあります。米人の議論には、論争(ディベート)と、交渉(ネゴシエーション)とがあり、 この区別は結構はっきりしています。

ディベートは白黒をはっきりさせる目的で争う論争です。アメリカでは学校でこの訓練をします。 例えば結婚後の男女別姓は是か非かを、くじ引きで二チームにわかれ、資料と作戦を準備して討議します。 主張、反論、再反論と交互に演説し、審判員が勝ち負けを判定します。勝負はその過程だけから判断され、 結果が正解かどうかには関係ありません。いかに相手の弱点をつくか、自分の主張を正しそうに見せるか、などを練習するのです。

ネゴシエーションは、お互いの立場を主張しつつ、最良の解決策を見出すことを目的にするもので、 目標は双方が勝者になることです。日本の場合は、根回しをし、持ち帰って再検討し、適切な落とし所を決める、ということになりがちですが、米国の場合にはその過程、特に初期段階では自分の立場を有利にしようとして、ディベートで鍛えられた技法が持ち込まれます。日本人はびっくりして、話にならない、出るところへ出よう、となってしまうことがあります。

ここで言われることの一つが「二者択一を迫られたら・・」です。 これは日常の問題でも遭遇します。 性能を重視すればコストと重量が嵩むなど、技術屋の仕事はその対処の繰り返しです。 それを諦めずに第三の路を探すのも楽しいです。しかし、「何かアイデアがあるだろう。 それを出すのが君達の仕事じゃないか」なんて言う上司がいたりして・・・