第六則 世尊拈花

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釈迦が弟子を集めて説法した時、何も言わずにただ一枝の花を見せられた。 皆黙った中で迦葉だけがにこりと微笑んだ。釈迦は「仏法の神髄を言葉や文字によらず迦葉に伝授した」と言った

無門和尚の解説:釈迦は傍若無人に振る舞っている。善良な人々を奴隷とし、 羊頭を掲げて狗肉を売る。本当に判っているのだろうか。 もし全員が微笑んでしまったらどうやって伝授するつもりだったのか。 また迦葉も微笑まなかったらどうするつもりだったのか。仏法の真髄が伝授出来るのなら皆を騙したことになるし、 もし出来ないというなら何故一人迦葉にだけ伝授したなどと言えるのか。


さて、ここからが本当の仏法の神髄とは何か、釈迦が弟子に伝えた物事の本質とは何かの話になります。 しかしこの則ではその内容には触れていません。それは言葉にならない、文字ではない、 ただ理解するしかないものだ、と言います。釈迦はそれを第一弟子の迦葉に伝えました。 その際、釈迦はただ一枝の花を見せただけでした。

仏法の真髄は言葉や文字によらないものである、とここでも言われていますし、 他でもそのように表現されることが多いようです。 しかし、文字や言葉によらないもの、ということは文字や言葉を否定するのではないと思います。 物事の本質の文字や言葉による表現や理解は二次的なものであり、それらを超えたところにある、ということであり、 言語や文字が即不要で否定されるべきものではないでしょう。

全ての宗教が伝道によって広まるのと同様、禅も言語と文字によって伝わります。 只管打座といってもただ座禅しておればよいのではないでしょう。 そこには正しい座禅の方法、正しい座禅に対する心身の姿勢があり、それは言語によって伝授されねばなりません。 茶道とはただ茶をいれて飲むだけ、禅はただ座るだけ、ではないのです。問題はその「ただ」にあります。

ただ、とは決してどうでもよいということではないのです。 それを理解することが座禅の、茶道の本質を理解することになるのでしょう。 そしてその過程では二次的な言語や文字による説明と理解が必要となります。

釈迦は一枝の花を見せることによって、その花をここにもたらしているもの、 花の存在の意義、花の本質とは何か、などを皆に提示しようとしたのかもしれません。 それまでの釈迦の日頃の指導を受けておらず、その場にいない人達には推定することは難しいことです。 その背景を知らない者が一体釈迦は花一枝で何を示そうとしたのかを単独に推理し理解しようとすることは禅がもっとも嫌う憶測でしょう。




花の存在や本質に関する課題は後の則の中で繰り返し現われてきます。 この段階で無門和尚が提示していることは、釈迦が花一輪によって示そうとしたことの内容を推測し当てさせることではないでしょう。 わかる者には分かる、わからない者には分からない、ということでしょう。

この則は、さあ、これから物事の本質にふれてゆくぞ、心の中から本当に分かるものはついてこい、 最後には花一枝を見せられただけで分かるようになれ、という無門和尚の宣言ととっておきましょう 。同時に、文書や資料だけで禅を理解しようとしてはならない、 優れた指導者の下で修行し、言葉を超えた理解が得られるようにならねばいけない、と強調しているのだと思います。

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犬足:「話せば判る」という言葉の背景には、話さないで判らせようとした、という状況があるようです。 黙って花を見せたり、指を一本立てたり、ただじっと座っているだけで判らせる、 言葉によらないで理解させるということが禅にはよく出てきます。

本当のことが判るには、言語の制約を超えた段階での理解が必要なのでしょう。 言語の意味することは広く、その言語に付随する様々な観念が理解を妨げ、誤解を生むかもしれません。 しかしだからといって言語を捨てることにはならないでしょう。

話しても判らない、ということは多々あります。宗教論争はその典型的なものでしょう。
「宗論は、どちら負けても釈迦の恥」 と戒めるのは宗教論争の無意味さを示しているものと思います。戦争してしまうのは論外ですね。