第七則 趙州洗鉢

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和尚に僧が尋ねた。「私は新参者です。道をお示しください」 和尚は「朝食の粥は食べたか」と聞き、僧は「食べました」と答えた。 和尚は「では鉢を洗っておきなさい」と言い、そこで僧は悟った。

無門和尚の解説:この和尚は口を開いてはらわたまでさらけ出し、心の中まで見せてしまった。 この僧はそれを聞いても本当の処がわからず、鐘を見て甕と呼んでいる。

全ての物の本質を究めようとする禅のテキスト、無門関の、これが実質上の第一則と考えることが出来ます。 ここで初めて無門和尚は道を示す具体的な例を挙げています。 両面を否定することが多い禅のテキストの中にあっては異例とも見える親切なガイドです。 いくつかの解説書を見ても、趣旨は、日常の作務の中に本質はある、ということのように感じられます。

では、日常の作務とは何を意味するのでしょうか。
毎日決まってする作業、朝食が済んだら食器を洗う。部屋を掃除し、洗濯をし、夜になったら寝る。 それがどんな意味を持つのでしょう。無門和尚の解説は、この和尚が腹の底まで見せているのに、この僧は何もわかっていない、 では今同じようにしている禅の僧達よ、おまえ達は判っているのか、日常の動きの意味を理解しているのか、と質しているのでしょう。

日常の動作を習慣とし、義務とし、惰性でやっていたのでは意義はありません。 それを自分の意志とし、自分の生命の動きとして、一つ一つの喜びとして行うとき、そこに本質があります。

意識して身体を動かすとき、歩くこと一つにしても、左足と右足が交互になめらかに動き、 顔が風を切って前に出て行くことはすばらしいことです。テニスにしてもスキーにしても、 自分の意のままに手足が動くことはそれ自体がすばらしいことです。 たとえそれが世界チャンピオンや名人達人の動きでなくとも、そこには自分の神経と肉体の交流があり、命の脈動があります。


茶碗を洗うときの、椀を巡り指先を流れる水、拭き取られた椀に残る湿り、 一つ一つの動作やそれが産み出す情景すべてが生命です。死を間近にした病人は自分の手を目前にかざし、 自分の指の動きに見とれることがあるそうです。まだ自分の意のままに動く指を不思議なもののように眺めるといいます。

この僧は、朝食が終わったら食器を洗っておきなさい、という和尚の言葉に、 あらためてその動作の意味、その動きが出来ることの意味を見、その作業、 その動きを司っている自分というものを認識したのでしょう。

最初に戻って、本質は日常の動きの中にある、ということは、 その動きを司っている生命と自分自身を考えたときに本当の意義を持つものとなります。 では、その自分という本質とは何か。無門和尚は次の則でそれを提唱します。



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犬足:「映画の開演時間に遅れてやってきて、他の客達に何も聞かずに何が起こっているか理解し、 最後まで見ないうちに他から呼ばれて出てゆかなきゃならない。人生とはそんなものだ」

著名な神学者のお言葉だそうですが、好きな言葉です。長い長い時の流れの中で、自分が経験するのはほんの一部です。 私自身は東京大空襲から911、初めての人工衛星からコンピュータ、 月ロケットからインタネットまでの華やかな技術開発の流れを目にすることが出来ました。
技術屋としてはもう少し早い20世紀前半の方が面白かったかな、とも思いますが、 私は自分に割り当てられたこの時間の流れの一部にとても満足しています。

その限られた流れの中で一人の人間の歩む路は1本しかありません。曲がりくねり、寄り道し、 時の流れの中を前へ前へと進んでゆく1本の路があります。その路を歩みながら、周囲を見回し、理解し、 皆にとって少しでも快適なものとするよう努力し、歩き出した点のずっと以前、 そして見ることのない遥か先を、出来るだけ見通し、自分の心をそれらを全て包含することの出来る大きなものへと高めてゆく、そ れが無門和尚の目指す無の理解ではないか、というのが、私なりの解釈です。 「一路」、ひとつの道、とはそんな感じを込めた名前です。