第八則 奚仲造車

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和尚が僧に尋ねた。「車作りの名人が百台の車を作ったが、 彼は車の両輪と車軸を取り外したという。これは何を意味するか」

無門和尚の解説:このことを直ちに見通す人があれば、その眼は流星のごとく、
その働きは雷のごとくであろう。

両輪と車軸を外してしまえばそれは車ではありません。しかし車輪が外れかかっている状態はまだ車です。 車を作る、車でなくなる、とはどの時点のことを言うのでしょうか。少しずつ両輪を外れる方向へ動かしていった場合、 次いで部品を次第に細かく分解していった場合、どの時点でそれは車でなくなるのでしょう。

車は解体の程度に従って、壊れかかった車、分解された車、車の部品、車を構成していた材料、 そしてもう車とは言えない物質の集まり、と変化してゆきます。その変化点はどこでしょう。
逆に何かが集まってひとつのものを産み出すとき、どこからその本質は現れるのでしょう。 人間が人間として認められるのはどの時点からでしょうか。また死んで人間でなくなるのはいつからでしょう。

この則は人間から両輪や車軸に相当するものを外していった場合、 どこから人間ではなくなるのか、という課題と解釈したいと思います。 自分の肉体が滅び、人間としての形をなさなくなった場合、自分という人格、個性はどうなるのでしょうか。 これは、その反対に自分が生まれる前の自分はどうだったのか、という設問としても禅には現れます。

古来、人は精神を不滅のものとし、死後の世界を考えました。それなら作った車の両輪を外し、 車軸を外してしまっても、構成する部品を細かく分解してしまっても、車という本質は残る、ということになります。 もし車が残らないというなら、犬猫はどうでしょう。世の中のもの全てに仏性があるというなら、 車もその仏性が残るはずではないですか。



車は車として定義された機能を持ち始めた時点を以って車となります。車としての機能を失い、 その機能の再現が不可能となった時点で車ではなくなります。人間は人間としての精神を以って人間とします。

我考える、ゆえに我あり、と言った人があります。 逆に、考えないもの、考えることを復活することが出来なくなったものは人間ではありません。 極論すれば眠っていて目覚めることが絶対に不可能になったものは人間ではありません。

脳が永久的に破壊され、穏やかに眼を閉じて呼吸を続けている美しい寝顔の中に 将来共に意識が絶対に存在し得ないということを立証することは難しいでしょうが、 たとえば頭部を失った人体を人工心肺と電気刺激により生かし続け、生殖させ出産させることは可能でしょう。 この状態は、移植される内臓が人間でないと同様、明らかに人間ではありません。


ではクローンはどうでしょうか。人工知能はどうでしょう。 もしスーパーコンピュータに一個の人間の全ての脳内情報を植付けることが出来、 コンピュータ内に精神と人格を復活または創生することが出来たとしたら、それは人間でしょうか。

脳内の情報を全てコンピュータに転写できる装置を開発した科学者が、自分を実験台にし、 目覚めたときに自分がコンピューターの中の側にいることに気が付き、 こちらを得意そうに覗きこんでいる生身の自分と対面するという小説がありました。

これはまだ当分先のことでしょうが、人間のクローンは既に実現段階にあります。 自分と全く同じ条件の人間、正確に言えば自分が誕生したときと全く同じ遺伝情報を持つ人間を作り出すことは可能です。 そこに人工的に産み出された自分と同じ出発点を持つ生物は明らかに人間です。 そしてそれが成長すると共にそこに芽生える人格は、先の因果の則で述べた通り、 現在の自分の人格とは一致しません。ではそこに新たに芽生えた人格とは何なのでしょうか。 現在の自分とはどのような関係なのでしょうか。

二つのハードウェアが全く同じでも生じる人格は異なることは前述のクローンの場合であきらかです。 ではコンピュータに移し替えられた自分のデータから生まれた、自分と全く同じ意識と人格を持つものは自分でしょうか。 もし人間の意識の複製が出来た場合、自分の意識とは何を以って特定するのでしょう。



人間はまだこれらの課題に答える準備が出来ていません。おそらくその準備が出来る前に技術が完成してしまうかもしれません。 とりあえず現代の人間の常識は人間のクローンを作ることを禁止しました。 しかし人間の探求欲を永久に規制することは不可能でしょう。既にクローン人間を誕生させたと主張している団体もあります。 クローンは、生体組織の側、人工知能の側の両面から研究され、将来はその双方が実現されるでしょう。

意識というものの理解が進み、人間の人格とは何か、という答を見出したときには、クローン人間の扱いも変化し、 電子回路内の人格も考慮されるでしょう。

無門和尚は人間とは何か、物の本質とは何かを車の例を用いて提唱しているものと思います。
このことはまた後の則で再度扱われます。



犬足:法律的に胎児がいつから人間と見做されるかは、かなり明確に決められているようです。 しかし、受精卵が分裂を始め、細胞分化が進んで脳が形成されてゆくとき、心というアプリは、いつ、どのようにしてインストールされるのでしょう?

そのプログラムをどうやって組み上げ、書き込むかの指示書も、おそらくゲノムの中に記載されているのだと思います。 それが解読されるに従い、人間の心も、遠い未来には人工的に創生されるようになると私は思っていますが、 それまでには解明されるべきものが沢山あり、また「解明するべきではない」という「障害」を乗り越える必要があるでしょう。

人クローンや精神の人工創生は「神を恐れぬ、人間の尊厳を損なう暴論だ」と言われるでしょうが、 将来人間自身の「心」自体が発展し変化し、より高度なものになってゆくと共に、 受け入れられるようになると思います。そして「心」の意義と尊厳性は益々高められてゆくでしょう。

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