第九則 大通智勝

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和尚にある僧が「大昔に大通智勝仏という仏さんが 十劫という長い時間道場で座禅したが仏道を成就することが出来なかったというが何故ですか」と聞くと 「その質問は的を得ている」と答えた。重ねて「何故仏道を完成することが出来ないのですか」と聞くと、 「それは大通智勝仏が仏道を完成しないからだ」と答えた。

無門和尚の解説:仏道を知ることはよいが、知識として理解するのではだめだ。 凡人が本当に自分を知れば聖人だが、聖人がそれを理解したのでは凡人である。


ここは素直に、仏道には完成ということは有り得ない、と解釈したいと思います。 名人、達人の域に達した人がよく言います。「芸の道には終わりはありません。一生が勉強です」
これは文字通り、学ぶべきことはいくらでもある、という意味でしょう。 または、私は頂点まで極めたということを謙遜して言うこともあるかもしれません。

日本の伝統芸や伝統美術には様式美というか、伝統というか、技術的には表面上は難しくなさそうに思うものも、 修行してマスターするには一生かかる、というものがあります。 手先の技術ではないのだ、生活態度までが音に現れるのだ、といわれることもあります。

ここで取り上げている仏道の完成、とは、目利きやお墨付き、免許皆伝や名取りなどといった外からの認証、認可ではない、 自分自身の追求の結果を示しています。そして、そこには、満足してしまったら終わり、 それは完成であると同時に劣化、腐敗の始まりであるということが認識されています。

名人達人たちの、芸の道には終りはない、と言う意識は、仮に技術的にはもうやるべきことがなくなってしまったとしても、 終わりを感じてしまったらそこが終わり、以後はそれ以上の進展がないばかりか、自分自身の満足が、 安心が得られなくなることを知っているからでしょう。

最先端の宇宙論を研究している著名な物理学者が著書の中で古いことわざを引用しています。
「たどりつくことより、希望を抱いて旅を続けている方が幸せなのだ」と。





目標を達成することは、目標を失うことでもあります。悟った、安心を得た、と思ってそこで立ち止まったときに、 人間は老化し、腐敗し、不安心の種も芽生えます。悟ったといってそこで安住していては、 やがてそれを超える不安が襲い、やがて煩悩の中に埋もれてしまうでしょう。

悟りを得たと思ってそれに安住していられるのは無知のレベルでしかないのです。 無知が無知でいられる間は、何も知らない幼児が不安も知らないのと同様、一見安心を得たかに見えます。
しかしそれはいっときの、仮の安心であり、いつかはそれを打ち壊すものが現れます。

禅では日常の全てが修行でしょう。その過程において安心が得られ、その努力によって一歩一歩前進し、 心身の成長、時間的変化と共に広まっていく世界の認識、世界からの干渉や問題に対処しながら先へ先へと進み、 やがて訪れる死、無との対面へと進んでゆくのでしょう。

大通智勝仏が仏道を完成しないからだ、とは、文字通り、終わりのない修行の姿勢、その過程そのものが仏道なのだ、 ということを示しているものと思います。



犬足:何かを成し遂げたときの達成感というのは素晴らしいものです。 しかし、暫くすると一種の喪失感が生ずることがあるでしょう。それは目標が高かった場合に特に強いようです。

私事ですが「無門関」の本を書き上げたときには、それなりの充実感がありました。 しかしすぐ次は何をしようか、という思いがありました。書くことがなくなってしまうのではないか、もう新しい写真が撮れなくなるのではないか、 という行き詰まりを案ずること、物事にはいつかは終わりがあるんだ、などということは不安心を産む種です。

大通智勝仏は何故成仏しないか、という提唱は、そのような安易な煩悩を超えよ、という常に前へと進み続ける姿勢を説いているのでしょう。 そしてそれが安心を得られる一つの道なのかもしれません。

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