第十則 清税孤貧

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和尚に僧が頼んだ。「私清税はきわめて貧乏です。何か施しをしてください」と。 和尚は「税さん」と呼んだ。清税が「はい」と答えると、 和尚は「銘酒を三杯も飲んでおいてまだ唇を潤していないというのか」と言った。

無門和尚の解説:清税は何のつもりでこんなことを言ったのだろうか。 この和尚は清税の心の底を見抜いている。しかし和尚が銘酒を飲んだと言っているのはどういう意味か。

この則は前の則と対になっていると考えます。前則では、大通智勝仏が仏道を完成しないのは、 本人が満足していないからだ、それを望んでいないからだ。仏道には完成というものはない。
常に悟りを求めて修行を続けることが仏道である、と解釈しました。

だからといって、ただ際限もなく求め続けていればよいということではないのです。 ましてその答を、教えを請うという安易な道だけに求めているようではいけません。 私は貧乏です、何か施してください、というこの僧は、努力せずして何かを得ようという、他に頼る態度であると共に、 求める気持ちだけがあり、自分が何を求めているかが分かっていません。

求めるものは自分の心から発したものでなければなりません。そしてその答は自分で見出さねばならないのです。 ただ何でもあるがままに受け入れ、何も考えないのは単なる痴呆であり、 また無垢の赤子のように全てを吸収してゆくのは無知の段階でしょう。それらは共に禅の目指すところではないと思います。

ただ吸収し続けるだけでは、たとえ銘酒を何升飲もうと、唇を潤した感じはしないでしょう。 灘の銘酒と醸造アルコールの差も分からないでしょう。いかに有益な教え、ヒントを与えられようと、 本人にとって何の意味も持たないでしょう。自分自身の意識なしには何を教えられようと無駄なのだぞ、 と無門和尚はこの僧をたしなめています。



満たされないまま施しを求め続けるということは、人間の限りない欲望にも通じます。 前則の、終りのない探求の姿勢との差は、自分としての目的意識の差でしょう。 自分が貧乏であると感じ、いつも飢えた状態であり、かつ何を求めているのか分からないまま欲望だけが残る状態こそが、 常に満たされない不安心をもたらすのです。

それを解決する一つの方法は欲望自体を否定してしまうことでしょうが、無門和尚の取る道はそれではないでしょう。 自分としての、自分本来の欲望、欲求は持たねばなりません。 では富を求めるのと、知識を求めるのと、悟りを求めるのとの差は何でしょうか。 そこには社会との関連、他の人間との関連、人間の本質との関連が考慮されねばならないのでしょう。

通常の宗教はその答を出すためのガイドラインを用意しています。禅ではそれを個人のレベルに投げ返してきます。

ここで提唱しているのは、教えを求め続け、極め続けることの是非ではなく、 その求めの根源となる自分の本質です。お前は何を求めているのか、その求めは人間として正しいものであるか、 自分の納得したものであるのか。お前は自分が何を飲んでいるのかがわかっているのか、と無門和尚は迫ります。

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犬足:「海外での恥ずかしい経験を紹介します。 観光地で、一人の男にシャッタを押してと頼まれ、撮ってあげてカメラを返してたら、 青い服が現れて警察手帳のようなものを見せ、その男に「今この観光客に麻薬を売っただろう」と詰問し始めました。男は必死で否定します。

面白いことになったと見てたら、僕に「お前は今この男から白い小さな袋を買っただろう」と言い、 パスポートを見せろ、ショルダバックの中を見せろと言います。 中を開けると僕の財布があります。その中も見せろというので、しっかり抑えたまま開け、白い袋などないことを見せました。 男は、それみろ、何もしてないぞ、とわめきます。 青服はしぶしぶ納得し「このような男には気をつけなさい」と言って去りました。 男と私は顔を見合わせ、何となく安堵して握手して別れました。

男が去ってから、今の寸劇は何だったのだろうと、念のため財布の中身を改めると、どうも紙幣が少ないようです。日本円も現地通貨もありますが、枚数が減ってます。 あ、そうだったのか、と初めて判りました。男が大声を上げたのでそちらを見たときに抜き取ったのでしょう。
後から考えると変なとこは沢山あったのですが、バッジ付き手帳もどきと制服もどきにはきれいに騙されました。

被害は数万円でしたが、あまりの見事さに半ば感心しました。握手までしたとは! 
単独行動だったのと、なまじ言葉がわかったのがいけなかった。下図右はその現場です。
これは古い例ですが、犯罪もどんどん進化(?)しているでしょうから、気をつけてください。




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