第十二則 巌喚主人

目次へ 次へ




ある僧は毎日自分を主人公と呼び、自分で問い自分で答えていた。 「目を覚ましているか」「はい」、「人に騙されるでないぞ」「はいはい」と言っていた。

無門和尚の解説:この和尚は自分で自分を買ったり売ったりして神々や鬼の顔を弄んでいるが、どういうことか。 呼びかける者、それに応える者、騙される者、騙されない者、そんなことを認めたら間違いである。 こんなことを真似するのは似非禅、野狐の禅だ。

今考えている自分自身を自分が客観的に見るということは果して可能なのでしょうか。 これはひとつのパラドックスです。「例外のない規則はない」「私の言うことは全て嘘である」 「この箱にはこの部屋中の全ての箱が入っている」などは一種の集合論のパラドックスであり、それ自身の中に矛盾を含んでいます。

例えば箱Aにその部屋の全ての箱が入っているなら、箱A自身もその箱の中に入っていなければなりません。 従って「この箱には部屋中の全ての箱が入っている」という文章は成り立ちません。 クイズとしては「箱Aの中に部屋全体が入っている」という答もあるでしょうが、それは本質的なことではないのです。

自分自身を客観的に見ている自分というのは、自分自身ではないのでしょうか。 自分自身に問い掛け、自分自身を案内し指導することが出来る別の自分などあるはずはないのです。 そう問い掛けている者こそがまた自分です。

もしこの僧のようなことが容易に出来るなら、自分が二つ存在することになり、 性格の分裂、二重人格になってしまいます。そして一方の自分が他方より優れた、 目を覚ました騙されないものであるという保証は何もないのです。



自分自身を見詰めるのに、もう一人の自分という別の観点を設定して新しい理解を求めることは意義があるでしょう。 しかしその観点も自分という枠の中から抜け出ることは出来ません。そこには外部から自分を眺めるということが可能であり、 外部から見ている自分の方が正しいと考えてしまう大きな落とし穴があります。

このような安直な客観性に頼って自分を律したつもりになっていては何にもならないぞ、と無門和尚はたしなめています。

自分を見詰めるということは、見詰めている自分自身を含んだものでなければなりません。 自分自身の本質は自分自身を考える自分の中にあります。客観的などという安易な見方に頼らず、 自分自身を自分で見詰めよ。考えている自分そのものを見詰めよ。そのパラドックスに真っ向から挑み、 循環の輪を大きく広げ、物質的精神的な全宇宙を包含するまでにせよ、というのがこの則の趣旨だと思います。

自分の心を安易に客観的に見るのでなく、心の階梯を登り、 または掘り下げてこのパラドックスの輪を広げていくことは後に別の則で示されます。



犬足:雑念が入る、ということを言います。何かミスをするときには、 他のことに気をとられていて注意がおろそかになる場合もあるのでしょう。 声に出し、動作を伴って確認することで集中力を高めるのが有効な場合があります。

指差し呼称がその一方法でしょう。いつもおまじないように、左よし、右よし、 と身体と言葉で洩れなく確認することが出来ます。自分を主人公と呼び、目を覚ましているか、 はい、騙されるでないぞ、はいはい、と自問自答するのもこの効果があるのでしょうか。

しかしこれも形骸化してしまうと無効です。元の会社で、事務所内の通路で衝突する人があったので、 床に足型を書き、その上で立ち止まり左右指差し確認する、というのが奨励されました。
でも、トイレから出てきて、指差しながらぶつかってきた人がありました。


目次へ 次へ