第十五則 洞山三頓
和尚の所に僧が参禅に来たので尋ねた。
「お前はどこにいたのか」僧は「査渡です」と答えた。「この夏はどこで修行したか」と問うと
「湖南省の寺です」と答えた。「いつそこを発ったのか」と尋ねると「八月二十五日です」と答えた。
和尚は「お前を棒叩きにするところだが許してやろう」と言った。
この僧は翌日和尚のところへ出向き、昨日は棒叩きを許すと言われたが何が間違っていたのか、と聞いた。 和尚は「この飯袋め、お前はそのようにうろつきまわっていたのか」と叱りつけた。この僧はそこで悟った。 無門和尚の解説:この和尚は僧に本物の飼料を与えて一つの道を示してやった。 一晩考えさせてから説明し、この僧はやっと理解したが、あまり理解が早くない。 では皆の衆、この僧は棒叩きにされるべきだったのだろうか。もしされるべきだというなら草木も林もすべて棒叩きにせねばなるまい。 もし叩かれるべきでないというなら、この和尚は嘘を言ったことになろう。 このところがはっきりと判るなら、この僧に代わって和尚に一言言えたであろう。 |
心は全世界を写す鏡である、曇りをさけ、あるがままに受け入れることが悟りである、というようなことが言われます。 しかしただ環境に流されていたのでは、その悟りはその環境でのみ成り立つものとなってしまうでしょう。 そこで安心が得られていたとしたら、たまたま大きな外乱がなかったからにすぎないでしょう。 環境まかせ、運まかせでいたのでは、ただ飯を食って糞を出す袋だと言われても致し方ないでしょう。 この僧の修行の旅の過程はただ流されていただけでした。この僧はそれを和尚に指摘されて悟りました、 これまではただ何事も起こらなかっただけだ、ということを。 査渡の冬も、湖南省の夏も、その認識さえあれば一時いっときがかけがえのない価値を持ったものであったはずです。 それどころが、毎日がスペシャル、になるはずです。 禅を離れて考えても、短い人生の中では毎日、毎時、毎秒が貴重なものでしょう。あと何回食事が出来るか。 あと何回テニスが出来るか。あと何冊本が読めるか。還暦を過ぎた方は考えてみてください。 著名な動物作家の本で、幼い子供の鹿が、時間などいくらでもあるといった表情で ぽかぽかと日の当たる枯れ草の中にぽとりと座り込むシーンがありました。これこそ若さの特権であり、 そこには時の意識の必要性はなく、宗教の入りこむ余地はありません。
しかし、時の流れを知り、その意義を理解したとき、枯れ草の温かさは一段と意味を持ち、
感動を一層大きくしてくれます。前記と同じ動物作家の作品に登場する若い狩人は、雪の中を鹿を追っていつまでも追うとき、
疲れを知らない自分の肉体と狩の興奮におののき、これぞわが人生最良のとき、と歓喜の想いで一杯になります。
これは作家自身の体験に基づいているということです。
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