第十六則 鐘声七条
和尚が言った。「この世は広く限りなく大きい。それなのにどうして合図の鐘が鳴ったら袈裟を付けて出頭せねばならないのか」。
無門和尚の解説:禅を学ぶということは耳で聞いたり眼で見たりしたものに従うことを嫌うものだ。 何かを聞いて悟ったとか、何かを見て分かったといってもそれは普通のことである。禅の僧は聞いたこと、 見たことを越えてその上にある働きを見なければいけない。 では考えてみよ。音が耳に達するのか、耳が音を聞くのか。たとえ音も静寂も共に超えた忘我の立場になったとしても、 それをどう説明すればよいか。耳で聞くというのではまだ判らないであろう。眼で聞いてこそ始めて観ることが出来るのだ。 |
無門和尚の解説の意味は、音も色も忘却するという心境になったとしても、 音や色を自在に使いこなせなければいけない、ということでしょう。 すなわち、見えるもの、聞こえるものにどう対処するかは個人の自由です。 では何故禅の修行をする者が、禅堂の厳しいしきたりやきまりに従わねばならないのでしょうか。 きまりとか規定は何のためにあるでしょう。 禅には無門関のように公案を中心としたものの他に、座禅を重視してひたすら座るという宗派もあります。 この宗派では日常生活から禅堂の中の一挙手一投足まできまりが非常に厳しく、 食事作法から各種の鐘や板木による合図の鳴らし方とタイミング、重ねた教本を運ぶ場合の腕の形や歩き方まで細かく規定され、 それらに外れることなく厳密に従うことを要求されます。これは茶道の細かい動作のきまりにも通じるものがあるようです。 禅寺の謹厳な環境、細かいしきたりやきまりに従った厳しい修行は一般社会に共通なものではなく 禅の修行を専門に行う人々だけのものが多く、ともすると世間からの隔離、外界からの逃避、 自己の世界への没入と見られるかもしれません。それは時間と空間と事象の全てを理解するための思考の場作りなのでしょう。
しかしいかに禅が座禅による煩悩からの解脱を説くといっても、国民全部、
世界の人類全員が同じように座禅だけしているようになる事が目標ではないでしょう。
禅といえども実践があり実世界との接点があるはずです。托鉢に限らず、様々な外部からの支援協力なくして禅は成り立たないでしょう。
それを認識し感謝するだけでなく、現実の社会との交流を通じて全ての事象、心象を理解するべきだと思います。
犬足:除夜の鐘が鳴ったら、皆様何をされましたか? 除夜の鐘には何も強制はされません。 |