第十七則 国師三喚

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和尚が侍者を三度呼んだ。侍者は三度「はい」と返事をした。 和尚は「私が至らないと思っていたが、お前が至らないのだ」と言った。

無門和尚の解説:和尚は三度も呼んで言葉は地に落ちてしまった。 侍者は三度も返事をしてただ折り合うだけの返事を吐いていた。 和尚も歳をとって寂しくなったのか、牛の頭を押さえつけて草を食わそうなどとしている。 しかし侍者は一向に食う気がない。どんな美味でも満腹の者は手を出さないのだ。

では言ってみよ。彼らの至らない処とは何か。国が平和になると才子が重視され、家が富んでいると子供は驕ってしまう。

これは有名な則のようです。この則に因み侍者の寮のことを三応寮と呼ぶ場合もあるそうです。
ところが、それほど有名な則にしては、現代の解釈は実にまちまちです。 無門関全四十八則の中でも解説書の解釈に最も差があるものと思います。

三度も呼んだのに返事をするだけでちっとも動こうとしないのでは駄目だ、というもの。 呼んで応えるということだけで両者の間には深い理解が成立している、とするもの。 和尚が用もないのに三度も呼んで侍者を試したとするもの。 和尚はこの侍者に奥義を伝えようとしたが既に悟っていた侍者はあっさりと受け流したというもの、その他色々です。

これだけ異なった意味に読まれるということはまだ解釈が確定していないということでしょう。 多くの人が納得する解釈があれば自然にそれに集約されてゆきます。またある程度集約が進むと、それ以外の解釈は受け入れられなくなり、またそれを敢えてしようとするものがいなくなるでしょう。

音楽の演奏の場合、作曲家が意図した音楽は必ずしも譜面で完全には表現されていません。 そこに演奏者の解釈の余地があり、解釈が定着していない曲は様々な演奏方法が試みられ、受け入れられます。 またそういう曲には常に新しい解釈による自由な演奏が許容されます。

禅においても、自由に解釈しいろいろと考えることが出来ることが奥が深いものであり、 簡単に分かったなどといわずそれを熟考せよ、と言われるかもしれません。 そのために解説書の諸先生方は故意に様々な解釈をされているのかもしれません。

しかし無門和尚はこの則をそのように自由に解釈されることを前提にしたとは思えません。 ここでは原文だけでなく、解説書に見られる様々な解釈も含め、前後の則との関連も考え、 無門和尚が何を言おうとしているのかを推定してみましょう。



これまでの則で、学ぶ姿勢を説き、環境に対応する姿勢を説き、環境からの働きかけへの応答を解き、 自己の本質に従った対応を説いてきました。ここまでで名前を呼ばれていかに応えるか、の心構えは出来てきたはずです。

しかしその答は型にはまった一定の反応であってはならないでしょう。 一度呼ばれ、また二度目に呼ばれた場合には異なる状態が生じます。 第十一則では同様に拳を挙げた二人の庵主に対し、 自在な反応が要求されることを説いていました。ここではその反応は自在なだけではなく、 環境や条件に対応したものでなければならないことを説いているのでしょう。

和尚の呼びかけは前則の鳴り響く鐘と同じです。鐘がなったら袈裟を付けて出て行きます。 和尚が呼べば返事をします。しかしもし鐘が二度鳴ったらどうする、更に三度鳴ったらどうするでしょうか。

和尚が二度、三度と呼ぶに応じて自身も変化せねばならないでしょう。お前は型にはまった答しか出来んのか。 それとも全てを承知した上で同じ返事を繰り返しているのか。 最後の和尚の言葉は、私の指導が至らないと思っていたが、お前が無視していたのか、と解釈できるでしょう。


無門和尚が解説します。「腹一杯の牛に無理に草を食わせようとするようなものだ」と。 もし侍者が第二、第三の呼びかけに対して同じ返事を繰り返すのなら、何を持っていっても食べることはないでしょう。 和尚が親切に指導するだけでは駄目なのです。

無門和尚は更に詠って言います。「国が貧しければ才子が尊ばれ、家が富んでいると子供はわがままになる。 本当に禅を学ぼうとするなら、剣の山を登らねばならない」 これは、必要を感じていない場所には発明は産まれない、 学ぶという準備と心がけのないところに進歩はない、とそのまま素直に解釈してよいのだと思います。



この則は第十三則 からここまでの教えと学びについての提唱のまとめとなっているのでしょう。 学ぶということは指導されるというだけでなく、自分自身の意志に基づくものです。 だからといって安易にもう悟ってしまったなどといって状況の変化や外部の刺激に対し一定の反応しかしない自己満足に留まってしまってはいけないでしょう。

禅の究極の目的は師の言葉やテキストから選られた限られた反応の中に安住してしまうことではないのです 。先人の教えだけに頼るのではなく、自分が努力し続けねばならないという、 無門和尚の禅を学ぶ真の姿を願うもどかしさを含んだご指導だと思います。

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犬足:英語で書かれた禅の本を何冊か集めてみました。その中で興味があったのは、 無門関は本国中国より日本で重んじられ、また各則は日本では本来中国で意図されたものとは異なった意味に解釈されている、ということでした。

「本来の中国での意図」がどんなものかは私は理解していませんが、日本語の解説書にはいろいろなものがあるような気がしていましたので、ちょっと安心しました。 日本の禅は本来の仏教とは別個に発展したもの、と考えてもいいようです。

異なる言語を使って理解し合うことは可能ではあるが、難しいことです。 「同じ人間同士、誠意をもって当れば必ず判りあえる」も 「日本人と米人は昼と夜のように全く異なっている」も、どちらも正しい面もあり間違いもあります。

宗教、主義、言語が異なる人々の間の相互理解は人類の究極の課題でしょう。 世界共通言語を創設した方がありましたし、全世界混血を提唱した人もありましたが、それは正しい方向ではないかも知れません。 大それたことですが、無門関の示す広い心のあり方が、様々な紛争解決の糸口になることは出来ないのでしょうか・・