僧が聞いた。「道とはどんなものでしょうか」 和尚が答えた。「平常心これ道」 僧はきいた。
「それではどのようにしてそれに向かえばいいでしょうか」 和尚は「それに向かおうとすればますます離れてしまう」と答えた。
僧は「それに向かうのでなければどうやって道を知ることが出来るのでしょうか」と更に尋ねた。和尚は言った。
「道とは知るか知らないかではない。知ると思うのは妄想であり、知らないというのは自覚がない。
もし道に達すれば空のようにからりとしたものである。そこには知る知らずという理屈はない」僧はこれを聞いて悟った。
無門和尚の解説:この僧は和尚に質問し氷が融けるように釈明の余地なく理解した。
しかしわかったと言っても、まだ更に三十年参禅して本当のものを得るのだ。
更に無門が詠う。春に花が咲き、秋に月が照り、夏に風が吹き、冬に雪が降る。
つまらぬことに心をかけなければそれこそその人にとって幸せな日々である。
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難解な無門関のテキストの中でこの則は非常に親切で一読してわかりやすいように見えます。
解説書でもほぼ一貫して平常心の重要さを説いています。
私はこれはそのまま文字通り素直に受け取っていていいのだと思います。何も考えない放心の心ではなく、
全てを知り、それを知っているという認識を越え、言葉や概念を越えて受け入れた上での平常心が禅の目指すところなのでしょう。
スポーツやパフォーマンスの世界で、「勝つと思うな思わば負ける」とか、「うまくやろうなどという邪心を捨て、
最善を尽くすことだけを心がけよ」などと言われますが、思うな、ということ、心がけよ、と言う時点で既に、
知るか知らないかという意識の世界に堕ちています。
平常心であろうと努力すること自体が既に平常心ではありません。それでは本当の安心は得られません。
そこには全てを知った上で、思うか思わないか、心がけるか心がけないかというレベルを超えた心の状態があるべきでしょう。
そこに到達すればからりと晴れた空のような、知る知らずを超えた世界があります。
これは、スポーツ、演奏、仕事、何でも本心から打ち込んだことのある人、
晴れの舞台を経験したことのある人は思い当たることがあるはずです。
禅ではそれを、自分の意識全体、人生全体、世界全体に及ぼすこと、心の動き全部が常にその状態になることを目指します。
それが悟り、なのでしょう。
勝つための安心の逆療法として、勝つことだけを考えることも可能です。ゴルフのパットなら入れることだけを考えます。
傾斜や芝の読み、距離の歩測、その他数多くの事前データ収集は当然必要でしょうが、
実際にボールを打つ段階ではそれら全部を同時に考えてはいられません。
スポーツにおける人間の動作は頭で意識して動いていたのでは間に合わない複雑な制御の組み合わせからなっています。
なまじ言語による思考が入ると、人間の機能は低下してしまいます。
言語意識による内部雑音を消し去るには、何事かを念ずることで言語意識の活動を停止させてしまうのも一つの方法です。
ゴルフスイングの時のおまじない、「チャーシューメン」や「ゴッドセーブザクイーン」なども、
単にリズムを一定にするだけではないでしょう。踵が付いたか、手首は返ったか、などというその都度不安定になる言語雑音を締め出し、
非言語の「筋肉の記憶」を活かすことが目的なのでしょう。
しかし本当に上達すれば、そのようなおまじないに脳の一部を割くことなく、
利用可能なCPUの能力全てを運動の制御のための非言語活動に使えるようになるのでしょう。
これは身体の動きを支配する筋肉の活動に限らないと思います。不安、喜び、悲しみなどの心の動きは言語のレベルではないでしょう。
悟るということも言語や文字を超えたものであることはこのテキストの中で繰り返し主張されています。
物事の本質に対面し、自らの心の動きを自らが意識する禅の道、それを神という他力に縋らずに安定させるという道を目指すには、
自分の中の言語による思考を超えた、更に高いレベルでの安定した心の動きが要求されます。それを実現させる状態が、平常心、なのでしょう。
これはあたりまえすぎます。無門和尚はもっと深い意味をこめているのかもしれません。
禅の先生方からすれば、そんな浅はかな分かったつもりになっていては駄目だ、と言われるでしょう。
しかし私はここは素直に、本物の平常心とは何か、を考えておきたいです。
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犬足:平常心であろうとすることは既に平常心ではない? じゃあどうすればいいの、って言いたくなりますよね。
上では、運動の場合は邪魔になる言語思考を、おまじないや勝とうと念ずることで締め出し、非言語の身体能力を充分に引き出す、
と判ったようなことを書きました。
それはその通りなのですが、運動ではなく、人前の演説、入学試験、楽器演奏など、
言語思考も必要となるものでは完全に非言語能力だけに頼るのは困難な場合があります。
植言語思考に頼っている場合は、その思考が完全にいつもの練習と同じになっていないと、
本番では出来なくなってしまいます。私はオーケストラで毎回大きなミスをして、
多くの方々に迷惑をかけてきました。それは練習では間違えなかった場所で起きました。
今度こそ、今度こそ、と思っていても・・・
プロの方は曲を覚えるのに、楽譜(視覚イメージ)、音楽(音の繋がり)、指の動き(動作)の
三つで覚えるそうです。どれか一つがおかしくなっても後の二つでカバー出来るといいます。
私は最後までそれが出来ませんでした。リズムの悪さや大き過ぎる音は
一所懸命なアマチュアとして我慢していただくとしても(それも大変な迷惑でしたが)、
本番での大きなミスは打楽器では致命傷です。気にすればするほどミスは止まず、引退するまで平常心が得られませんでした。
この本が20年早く書きあがっていたら、違った結果になっていたかもしれません。
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