第二十則 大力量人

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和尚が「力のある人が何故足を上げて立ち上がれないのか」と言った。また「話すということは舌でしゃべることではない」と言った。

無門和尚の解説:この和尚はよく言ったものだ。内臓まですっかり晒け出しているようだ。しかし誰もわかってはいない。もし直ちにわかったと言う人があっても、無門和尚の処へきて棒叩きを食らった方がよい。それはどうしてか。本物の金かどうかを知りたいのなら火の中に投じてみればよい。


立ち上がるということは実際に立ち上がってこそ意味があります。 立ち上がる力があるというだけでは立ち上がったことにはなりません。 実際には立ち上がる能力があっても立ち上がれない、ということはしばしば見られます。

理解出来るということは実際に理解することとは異なります。 理解したことを伝えるのは、それを言葉により表現することではありません。 釈迦が花を見せ、迦葉が微笑んだように、理解は言葉の域を超えているのでしょう。。

無門和尚の詩では、「脚を挙げれば世界の海を蹴返し、頭を低くして全世界を見下ろす。 この肉体を置く場所はない。さあ一句を添えてみよ」と迫ります。 出来る出来ない、喋る喋らないといった次元に留まっておらず、それらを超えた大きな世界を理解せよ。 もしその世界で立ち上がるなら、この全物質世界を眼下に見渡すことになるであろう。 さあその状態に到達して、何か言ってみよ、と無門和尚は迫ります。

しかし無門和尚のテキストが文字で書かれているように、 理解の過程では言葉が必要となり、大力量を得る方法が必要となります。 大力量の人が立ちあがれないことがあるといっても、全く力のない人はどうやっても立ちあがれません。

話すとは舌を用いることではないとはいえ、もともと何も話すことがない人は舌を用いる以前の問題でしょう。 我々は動くために身体を用い、コミュニケーションのために言語を用いなければならないのです。

但し、身体の動き、言葉の流れだけに頼ってはならない。自分の心で感じ取らねばならない。 さもないと力があるのに立ち上がれない、いくら喋っても話せない、悟ったといっても煩悩を絶ちきれない状態になってしまうぞ、と無門和尚は言っているのでしょう。

また、本物の金を確かめたいのなら火の中に投じてみればよい、と解説しています。 ただ出来るというのか、実際に行動するのかはその場になってみて判ることでしょう。



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犬足:「会社は有能な人材より、有用な人材を求めている」と言われた時期がありました。
バブルへと向かって走り出していたころです。じっくり型より、とにかくすぐに対応し成果を上げてくれる人が歓迎されました。

確かに成果を上げない従業員はいかに「有能」であっても会社としては無用です。 しかし研究所のように成果が未知のものの場合、その区別は難しいでしょう。 企業の研究者は「勤勉さ」だけでは評価出来ません。当然実際に成果を上げることが要求されます。

大力量人が、立ち上がらないのか、立ち上がれないのか。それは努力しているかいないか、ということとは別の次元の話かもしれません。 誰でも努力すれば目標は達成されるというのは、成功した人だけに許される発言だ、と言った人がありました。 誰もが努力するプロセスを楽しむのがいい、結果はついてくるものだ、と言った方もありました。 一つの成功の傍には、沢山の達成できなかった人達がいます。その人たちは努力が足りなかったのだ、と言うのは酷でしょう。