第二十一則  雲門屎厥

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僧が聞いた。「仏とは何ですか」
和尚が答えた。「乾いた糞かきへらだ」

無門和尚の解説:この和尚も言ったものだ。家が貧しくて粗末な食事しか出せず、忙しくて原稿も作らなかったような答だ。 糞べらなどを持ってきて門戸を支えている。仏法の興衰を見るようだ。

無門和尚は第十九則、第二十則の二則に亘って心のあり方を説き、再び第十八側の仏とは何かという同じ問いに戻っています。 そして今度ははなはだ汚いものを示します。

乾屎厥とは禅の世界では一般的な言葉になっているようですが、解説書によりいろいろと解釈されていて、 排便のあと尻をふくもので、竹で出来ていて使用後は脇に盛ってある砂に突き刺して清掃し、また使うというもの、 木切れで作ったへらであり使い捨てだというもの、または糞かきへらとするのは全くの誤りで、 乾いた糞の棒そのものである、とするものなどがあります。

しかし無門和尚の解説の中では、これを以って禅の門を支える、という記述があり、糞の棒ではどうもしっくりしません。 ここでは糞かきへら、として考えます。但し一貫しているのは、きたないもの、という解釈で、 有名な小説の中では禅の小坊主が床屋の親方に「咄この乾屎厥」と憎まれ口をたたく場面があります。

禅の和尚は仏とは何かという質問に対し、あるときは麻三斤、あるいは糞かきへら、庭の柏の樹、など様々に答えています。 これは何でもよいので、その答で示されたものに囚われていると本当の所はわからない、とも言われます。

しかし、目の前にたまたまあったから麻三斤、きたないものでも本質は同じだから糞の棒、庭の木が目に入ったから柏の樹、 ではちょっと浅薄な感じです。それを題材にして考えよ、というからにはそこに何らかの意図があるはずでしょう。 ここでは何故無門和尚が二つの則を挟んで同じ設問を設け、最初は麻三斤、次は糞かきへらを持ってきているのかを考えてみましょう。

麻三斤(第十八則)は 自然の中の連鎖とそれに関わる人間の営みを示していると解釈しました。 その後の二則で無門和尚は本当の平常心とは何か、本当の行動とは何かを提示しました。
そしてまた本質の問題に戻って、糞かきへらです。



糞かきへらは人間の営みの自然の中の連鎖の最後に位置する排泄物を始末するものでしょう。 糞となり、排出され、それを掻きとるへらがあります。育てられ摘み取られ、計量された麻三斤を人間への入り口とすれば、 糞かきへらはその出口でしょう。

ゆりかごから墓場までを人間の時間的広がりとすれば、麻三斤から糞かきへらまでは 人間の自然界との関わりの広がりを示すものと考えられます。 大きいとも言えますし、たったそれだけ、という小さなものともとれます。

美人屁もすりゃ糞もする、という俗歌があります。悟ろうが悩もうが、 人間としての営みは避けて通ることはできません。それを始末するのが糞かきへらでしょう。 それを面倒見るのが仏性であるとも解釈できるでしょう。

仏というものは人間の全てを理解し、糞まで扱っていただけるものだ、という意味だったのかもしれません。 しかし、ここでは無門和尚は、それを麻三斤と対比させ、自然の世界とその中の一つである人間とを示したのでしょう。 そしてそれらを大きく包む仏の世界、本質の世界を示唆しているのだと思います。

第七則から始まった物事の本質とそれに対する学びの姿勢を示す課題は、ここまでで一応区切りがついていると考えられます。 日常の生活の中の生命の活動から説き、心のあり方、周囲の物事への対応、自然界の連鎖、心と活動を説き、 最後に人間の生命体としての宿命に戻っています。ここまでの則でこのテキストの主な内容は全て含まれていると言ってもよいと思います。



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犬足:「咄この乾屎厥」は小説「草枕」に出てきます。脇役の大徹和尚と小坊主の了念さんは飄々として好きなキャラでした。 これが後に禅に興味を持ったきっかけだったのかも^−^

主人公の画家が湯殿で、知らずに入ってくる女性を湯気の中に見るシーンがありました。 昔読んだとき、その美しい描写に胸をときめかせました。女性のどんな姿もネットで見られる時代ではなかったのです。

見ることが出来るもの、理解できるものはどんどん広がっています。 これは拡大を続ける人間の宿命なのかもしれません。 しかし「心」の成長の段階では何を見るか、何を学ぶかでその方向に大きな影響が出るでしょう。そこには適切な選択と集中が必要です。

それが教育なのでしょうが、それを行うのも人間です。考えるととても恐ろしいことです。
それを「正しく」行える人が真の宗教家なのでしょう。「正しく行える」、と思っている人は多いでしょうが・・・