第二十二則  迦葉刹竿

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阿難があるとき迦葉に「釈迦はあなたに金襴の袈裟以外に何かお伝えになったか」と聞いた。 迦葉は「阿難」と呼んだ。阿難が「はい」と返事をすると迦葉は「門前の旗竿を倒しなさい」と言った。

無門和尚の解説:もしこのことに対し適切な一言が分かるようなら、霊山の集会はまだ終わっていないことが分かるだろう。 そうでないならば、初代の仏のころからずっと心にかけてきたが今になっても悟りが得られていないのだ。

門前の旗竿を倒せ、とは、説教は終わったという意味だとする解説書が多いようです。 私もそれに従って、迦葉が呼び、阿難が応える、という状態をもって仏性とは何か、本質とは何か、 それらをどのように学んでゆくべきか、というここまでの講義は終わった、と解釈したいです。

迦葉とは第六則で釈迦から花一輪を示され、 仏法の真髄を言葉によらずに伝授された人です。
今度はその迦葉が弟子の阿難にまた無言の伝授を行いました。

名前を呼ばれて答えるという過程には、「今名前を呼ばれた、だから返事をすべきた」という言語による思考は含まれていません。 そこには非言語の理解と反応があります。大事なことは言葉ではなく、心で判るかかどうかが問題なのでしょう。 講義は終わった、と言われて阿難はそれを悟りました。 呼びかけ、答えることで、この師弟の間には花一輪を見せられて微笑んだときと同様の相互理解が成立していることを示しました。


無門関の第六則は、言葉を通じてではなく、わかるものにだけは判るのだ、さあ、ついて来られるか、という無門和尚の宣言でした。 そして前則までで本質を学び理解するということに関する一通りの講義が終わりました。 ここまでのことを理解できたか、私が伝えようとしてきたことが分かったか、と無門和尚は迫ります。 もしここまで説明してきてやったことが分からないなら、また第六則からやりなおせ、という関所がこの則だと思います。 迦葉と阿難は、そのまま無門和尚と私自身です。

無門和尚はここまでに学ぶ姿勢を説き、本質とは心であるということを示し、 不要物と思われるものの処理までを含めた人間全体を考えることを説いてきました。 前則まで一応この講座は一段落であり基本的なことはすべて提示されました。以降の則は応用問題とも言える段階となり、 いよいよ無門和尚の考える物事の本質とは何かが具体的に言及されます。



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