第二十四則 離却語言

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僧が聞いた。「黙っていれば内にこもり、話せば自分のものではなくなる。この両極端にならないにはどうしたらよいか」 和尚が答えて言った。「いつも思う江南の春三月、鶯が鳴き花が香る」

無門和尚の解説:この和尚の働きは稲妻のごとく、自分の道をすぐに見出してゆく。 しかし古人の語ったことを基にしてそれから離れられなかった。ここのところが分かるなら、 自分の道を見出すことが出来るだろう。まあ言葉ばかりに頼っていないで、何か適切な一語を示してみよ。

本質は動作でもなく言葉でもなく、ただ理解するもの、言葉にして説明しようとしては本質を見失ってしまうでしょう。 とは言っても、何らかのコミュニケーションの手段なくして自分に篭っていては独善と、 他人からの、特に指導をうけ何かを学ぶことが可能な人々からの隔絶になり、進歩がなく、結果として本質に迫ることもできない恐れがあります。

ではどのようにしたらよいのでしょう。どうやって本質に関するコミュニケーションをとればいいでしょう。

言葉による説明だけに頼らずに理解を深める方法の一つが、例証、連想、すなわち物事を直接説明せずに、 関連する事象、状況を示して対象を浮かび上がらせ、共通の理解を産み出すという方法です。 この和尚は春の自然の美しさを詠う詩を引用してその一例を示しました。

適切な例示を用い、それを触媒として相手の心の中に適切な答を醸し出す、または創り出させることが出来れば、 言葉で説明するより深い理解が得られるでしょう。但しそれは暗示とそれによって生まれる答に適切な連鎖があることが必要であり、 成果は受ける側の考え方、能力、その他の条件によって大きく変化します。また単に定型化した暗示を引用しても、 定型化した発想を産み出すだけであり、それでは言葉によるコミュニケーションと代るところはないでしょう。

無門和尚は解説して言います。この和尚はコミュニケーションをどのように行うか、という僧の質問に対し、 即座に暗示による本質の説明というすばらしい例を示してはいるが、やはり古人の詩を持ち出してきている。 それをそのまま使うのでなく、自分のものとして自由に工夫しなければいけない。さあ、既存の言葉に縛られるのでなく、自分の言葉として何か言え。

と言った直後に無門和尚は詠って言います。しかしおしゃべりを続ければよいのではない。 言葉を用い過ぎれば自分の言葉とはいえ、訳が分からなくなってしまう、と。



例証や暗示は言葉による直接の説明や理解を助けはしますが、それらの暗示は同時に余計な他の意味も持ち込んできます。 例え話というものは一見わかったようで却って本質から離れ、誤解を招くことは日常生活でもよく見られます。

議論の中で例えを多用する人は、自分の都合のよい解釈だけを強調し、 相手の理解を求めるというよりは自分の意見を押し付けようとしている場合が多いようです。 引用や例示で大事なことは、それらの文章を自分がどのように解釈し何を感じているか、ではなく、相手がどのように理解しているかでしょう。

相手の心の中にどのような反応を呼び起こすかを正確に理解していないと独善的な引用は却って誤解を生じます。 無門和尚は禅のコミュニケーションにおける暗示の有効性を認めながら、その限界にも注意を喚起しています。

この無門和尚の最後の詩は、他の和尚の詩の一部だそうです。しかしこれはオリジナルにおける前後の状況とは異なる使われ方をしています。 既存の言葉でなく自分の言葉として何か言え、と言った直後に敢えて引用を持ってくることによって、 無門和尚はそれらを自在に活用するという手本を示しているのでしょう。

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犬足:無門関に限らず、禅の公案は一種の引用でしょう。しかし、師の元で指導された内容は口外してはいけないのだそうです。 多くの解説書でも、公案に対する模範解答というのは記載されていません。

他人の解釈を聞いたり、本で読んだりすることは、問答の場では邪魔にしかならない、と言われます。 事前に読んでしまうと、自分の解釈の妨げになる、という考え方は判ります。 自然科学の世界でも新しいことを考えるときに他人の論文を一切読まない、という天才科学者がありました。 反対に、ネットの情報の引用だけで論文を書いてしまう学生もいるそうです^−^

しかし、現代の最先端の科学では、これまでの研究の積み重ねの理解なしにはその水準にも達することが出来ないものがほとんどです。 また自分が理解し判断する上では、これまでの先達者の努力の結果は参考にこそなれ、邪魔になるものではないと思います。 新しい分野はこれまで開拓されたものの更に先にあります。

宗教とは真理や思想の探究ではなく、個人の心の安心であることに立ち返ってみれば、 邪魔になる情報は避けていられればそれがいいのかもしれません。 あまりにも先へ進んでしまった素粒子の学問のように、その最先端の水準に追いつくのさえ困難になった現状よりは、 無知のレベルから新たに公案に取り組むことで安心が得られるのであれば・・・

個人的には僕はそれでは満足出来ません。これまでどのような禅問答がなされたのか、 それでどれほどの満足が得られたのか、更にその上は何があるのか。 このような考えが禅の嫌う「煩悩」かもしれません。それを押さえ込むには、余計な 邪魔者は最初から除外しておく方がよい、ということなのでしょうか。やはり禅も「宗教」なのですね。