第二十五則 三座説法
和尚は夢で弥勒菩薩の所へ行って三番目の席についた。尊者が合図して、今日の説法は第三座が行う、と言った。和尚は立って言った。「大乗の教えは言葉を越え、全ての判断基準をこえている。さあしっかりと聴け」
無門和尚の解説:さて言ってみよ。この和尚は説法したのか、しなかったのか。口を開けば真実を失ってしまうし、何も言わなければ喪失してしまう。口を開いても開かなくても、真実とは遠く離れたことなのだ。 |
これは学びに対し学ばれるという立場を示したものと考えたいです。ここまでの学びの姿勢、求める姿勢で示されてきたように、心を広く持てば誰からでも学ぶことが出来、誰からも教わることが出来ます。これは言いかえれば、誰もが学ばれる立場になり、誰もが、場合より時により指導者の役割をつとめなければならないということを意味します。 前の則でコミュニケーションの方法とその本質について説きました。では、お前がやってみよ。実際にその場に立たされたらどうするか見てみようではないか。言葉を越え、判断基準を超えているものをどうやって説明するか、との無門和尚の試験なのでしょう。 このページ全体が無門和尚のこの課題に対する私の答です。第十四則で猫をぶら下げられて何も言えなかった弟子を他山の石として、私はこのページを私の頭の上に載せます。 このページを読むことになった皆さん、しっかりと聴いて、ここに並べた言葉や判断基準を超えた私の考えを読みとってください。それは決して私に指導する価値があるというのではありません。誰にでも学ぶ態度があれば、この中にも何か参考になることがあるかもしれません。頭から否定するのでなく、この中にも学ぶことの要因があるかどうか、それを確かめて頂ければよいと思います。 それは強要するのもではなく、受け入れるべきものでもありません。このページを読まれるという巡り合わせにあたった貴方に対して、今は私が話す番だというだけです。この機会を生かしてしっかりと聴いて各人が判断していただけばいいのです。取り入れるかどうかの判断はそれを見聞きする人の側にあります。また伝わったことと学んだことは一致する必要はありません。
他人に教えようとすることによって、自分が本質を理解するということがあります。スポーツでも科学理論でも、他人に理解できるように自分の考えを整理することにより、その考えが明確になり、理解が深まる場合があります。また、それまでなんとなくわかっていたつもり、言葉によらず善悪の判断によらず、本質を見ていたと思っていたものが、いざ説明しようとするとはっきりしないことは多々見られます。
無門和尚の、さて、この和尚は説法したのかしなかったのか、という解説は、この和尚はかっこいいことを言っているが、はたしてその内容はどうだったのか、いう提言であり、手段と内容は別なのだと言っているのでしょう。どうやって説明するかということはわかっても、何を説明するかは別問題なのです。
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