第二十六則 二僧巻簾

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僧達が食事に集まっていたとき、和尚が簾を指した。二人の僧が簾を巻き上げた。和尚は「一得一失」と言った。

無門和尚の解説:さて言ってみよ。誰が得で誰が失なのか。ここのところがしっかりと見抜けるのならば、 この和尚が何を失敗したのかがわかるであろう。このような場合によいか悪いかということを判断することは切に避けねばならない。


同じものを並べて、その違いは何か、と問う課題は第十一則の 拳を挙げた二人庵主に似ています。しかし前の則では対象は二人の庵主ではなく、それに対峙する自分の心であったのに対して、 ここでは同じことをした二人の僧が対象になっています。

私は、細かい過程に拘らず大きい観点から物事をとらえよ、という無門和尚の提言ととります。無門和尚は解説の後の詩で、 簾を上げると青空が見える、しかしその青空でも私は満足しない、空も何もすべて取り払って、隅々まで風を通さねばならない、と詠っています。

簾を上げる目的は明るく空を見ること、風を通すことです。その目的が達成されさえすれば簾の上げ方がどうのこうのというのは些末な問題でしょう。 簾を上げて空が見えたかどうか、望む明るさが得られたかどうか、風が通ったかどうか、が問題であり、 二人の僧の上げ方をとやかく言うのは本質から外れている。と無門和尚は言うのだと思います。

無門和尚は、本当の所が分かればこの和尚の敗闕処が明らかになる、と言っており、敗闕は失敗と訳している解説書が多いです。 禅ではけなすことが褒めることだ、という解説が多いようですが、私はこの場合は無門和尚の批判はそのまま批判として受け取ります。 ここでは簾を上げてくれた二人の僧の優劣を問題にするようなこの和尚の態度を肯定してはいない、と考えます。



物事、二つのことが全く同じということはないでしょう。比較すれば必ず差はあり、優劣を指摘することは出来ます。 同じように簾を巻き上げた二人の僧についても、歩き方、上げ方、作法など、捜せばいくらでも差は見出せます。 それを取り上げて「一得一失」などと言っていてよいのでしょうか。

大事なことは簾が巻き上がって青空が見えることです。結果として何がもたらされるかでありその過程の比較ではないのです。 何事も二つを比較すればかならずそこに得失が生まれます。しかしその得とされた方が目的にかなった最適の答とは限りません。

簾の上げ方を比較で判断しているようでは、簾を上げる本来の目的、本質を見失ってしまうでしょう。 禅の修行においても、コミュニケーションにおいても、本質以前の過程の段階で比較し得失を考えるようでは、 とてもその上のレベルに到達することは出来ないでしょう。目前の現象の比較判断に囚われると、本来の目的、本当の判断を見失ってしまいます。


商品や事業の企画などで数多くのアイデアのプレゼンテーションを受けた場合、それらを比較評価したら、 必ずその中での最良のものが得られるでしょう。しかしそれだけで判断していると所詮どんぐりの背比べ、 ごく低い次元での意味のない比較に終わってしまう場合があります。

本当の革新的アイデアはそれらかき集めたものの比較検討の中にはないのかもしれません。 二者択一や、二元論を持ち出された場合には、本当の答はその中にはないのかもしれないということを常に注意する必要があります。

無門和尚の示唆するこの和尚の失敗とは、簾を上げることの意義を、二人の僧の比較で捉えたことでしょう。 本質を求める禅においては、目の前の課題だけをただ比較評価していたのではだめなのです。

簾を上げることの本来の目的は何か。明るく風通しをよくする、それによって見えるようになった青空、 その上の大空、またそれらをすべて超えたものを考慮し評価せねばならないでしょう。 二人の僧がどのように簾を巻き上げたかなどという比較は全く不要なものなのです。



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犬足:マネジメントの手法にはいろいろありますが、最も単純で効果的?なのはKKD法と言われます。 これは「経験と勘と度胸」によるもので、理論なしの山勘経営を揶揄して言われることが多いのですが、これにも認めるべき価値があるでしょう。

ラスベガスのブラックジャック(トランプのカードの合計を21に近くすれば勝ち)は、数組のカードを混ぜて使いますが、 初心者用テーブルでは1デッキ(一組しか使わない)プレイもあります。 一組しかないのですから、エースが4枚出てしまえば残りにはエースがないと判ります。 また開いているカードを見れば、残りのカードは全て判り、 その中に絵札や特定の数字が入っている枚数、従って次にそれらが出る確率や、親の伏せたカードの確率は正確に計算出来ます。

同じテーブルでプレーする人数が多いほど見えるカードが多いので有利でしょう。 プレイしている最中にその計算をすることは難しいようですが、この非言語の確率計算が無意識に出来るようになると「勘がいい」と言われます。 ラスベガスで唯一、プレーヤー側が勝つ機会が多いのがこのワンデッキブラックジャックでしょう。 これはサービスの意味でやってるようで、小額しか賭けられないですが、根気よくやって数百ドルを稼ぐことは出来ました。

経験はデータ収集、勘は確率計算、度胸は判断力、と考えればKKD法も馬鹿にするものではないと思います。 もちろん講座などで揶揄するのは、それらをただ漠然とやっているのではだめで、系統的に整理することが大事、ということでしょうけど。
自分自身のKKDを持たず、目前に提案された各案の長所欠点を指摘し、その中から最適なものを選んで満足しているような経営者は失格だと思います。