第三十二則 外道問仏

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釈迦に異教徒が聞いた。「喋ってもよいし喋らなくともよい」 釈迦は黙って座っていた。 異教徒は「私の迷いを払い、悟らせていただいた」と礼をして去った。

弟子が「あの異教徒は何を悟ってあのように礼をして去ったのですか」と聞くと、 釈迦は「駿馬が鞭を見ただけで走り出すようなものだ」と答えた。

無門和尚の解説:この弟子は長く釈迦について修行したのではないか。まるで異教徒の見解に劣っているようだ。 では言ってみよ。この異教徒と弟子の差は何か。


現代の解説書では、駿馬とは優れたものとし、鞭を見ただけで走り出すことを肯定し、 悟ってしまえば弟子も異教徒も同じ、と悟った異教徒を高く評価するものが多いようです。 しかし私は、ここで提起されているのは、わかるということの個人によるレベルの差の問題と考えます。

この異教徒は釈迦の黙って座っていた態度に対して自分の理解を反映させて悟りました。 そこに産まれた悟りの状態は異教徒が自ずから得たものであり、釈迦の座っていた姿は触媒として働いたと考えられます。 釈迦からテレパシーのように以心伝心で異教徒へ新しい悟りが伝わったのではないでしょう。

優れた指導者はこの触媒の働きがすぐれています。弟子の手をとり足をとって自分と同じ考え方に矯正するのではなく、 弟子の中に存在するもの、生まれつつあるものを適切に育て、場合によっては指導している自分以上のものへと高めて行きます。

この異教徒は自分の中の最良のものを釈迦に相対することで発現させることが出来ました。
一方、弟子の方はまだその準備が出来ていませんでした。機が熟していなかったとも言えます。 しかしいずれこの弟子も、釈迦の指導の下に大きく成長するときがくるのでしょう。



よい馬が鞭の影を見ただけで走り出す、とは、馬の方に走る準備が出来ているということです。 いかに千里を駆ける名馬であろうと、まだ鞭を見たこともない子馬時代では目の前に鞭をかざしても走り出すことはないでしょう。 そこには走ってもらいたいという主の意思を理解する段階が必要です。

鞭の意味を知っている十分訓練された、走る条件の整っている馬と、産まれたばかりでまだ鞭の意味を知らない馬とでは、 どちらが本当に速いのかは判りません。鞭を見ただけで走り出す馬が、尻を叩かれ腹を蹴られなければ動かない馬より速いとも限りません。

この場合、釈迦の前で悟って礼を言って去った異教徒と、その内容について尋ねた弟子との間に優劣はありません。 ただ、異教徒はその準備が出来ており自分で自分なりの答を見つけた、というに過ぎないでしょう。このことを無門和尚は指摘しています。


悟りを焦ってはならない。また悟ったからといって安心してはならない。 それはこの礼を言って去った異教徒のように、ただ自分のそのときの状態に対して答を得ただけなのかもしれません。 まだ悟れないからといってこの弟子を下に見てはならないでしょう。

禅ではそのために、ただ実参あれ、ただ座禅あれと強調します。安易な答を求めてそれに満足することのないよう戒める。 それが否定形の多い禅の真髄でもあるのでしょう。

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犬足:未だ鞭を見たことがない馬が、どのくらい速いのかを見分けるのは難しいでしょう。 血統に頼るしかないのでしょうか。企業に就職する研究者にとっては、重大問題です。

大きな成果を上げた研究者には多大の褒章が与えられて当然でしょう。しかしその陰には、 沢山の達成できなかった研究者がいます。その人たちの生活は数少ない成功した研究の利益によって賄われています。 当った人だけが利益を全部享受する、というのは逆に不公平でしょう。 自分ひとりで研究開発が出来ると思う人は、そもそも企業や研究所に就職すべきではないのです。

著名な科学者がストーブを考案したとき「自分は他人の発明を享受したから、 自分の発明も喜んで他人に享受させる」といって特許をとらなかったということです。 他方「発明家」としてもっと有名な方は自分の特許を確保することに執心し、晩年は特許抗争に明け暮れたそうです。

後者はどなたもご存知の方ですが、その方の「発明」はほとんど改良改善に類し、「基本特許」とされるものは数点しかなかったと言われます。 「発明は99%の汗と1%のひらめきだ」という言葉は、その方の「発明」にはひらめきは1%しかなかった、とも読めるでしょう。

そうだとしてもその方の偉大さと功績は少しも損なわれません。 米人が「日本人のやってる開発は他人の発明の改善改良だけじゃないか」と言うと私はこの話を持ち出しました。