第三十三則 非心非仏

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和尚に僧が聞いた。「仏とは何ですか」
和尚が答えた。「心でもないし仏でもない」

無門和尚の解説:もしこのことが判るのなら、参禅は終わりだ。


これは第三十則と同じ和尚の発言です。この和尚は、何故即心即仏と言うのか、と問われ、泣く子を黙らせるためだ、と応え、では泣き止んだらどうするのか、との問に非心非仏である、と言ったということです。つまり非心非仏とは即心即仏よりも上のレベルの話をしていると考えられます。

無門和尚の解説は非常に簡単で、もしこれが分かるなら禅の道は終了だ、というのです。 詠っていうには、剣客に逢ったら剣を呈し、詩は詩人以外に献じてはならない、人には四分の三だけを説け、全て説明してしまってはならない、と。

これは名剣や優れた詩をそれと分からない者に提示しても無駄だ、と解釈出来ます。つまり本質が分かれば心とも仏とも呼ぶ必要はないのだが、そんなことをまだ本質を理解していない人に言っても無駄である、そこまで理解して初めて非心非仏の意味が分かるということでしょう。

これが分かれば禅の道は終了であるということは、最後までそれは分からないものだ、とも解釈できます。本質の理解は言語を超えたところにあるが、それは容易く得られるものではないのです。また、心でもないし仏でもない、というだけで満足してしまってはならないでしょう。私はこれを、非言語思考の確立、と考えてみました。



人間の心とは言語と密接に関連しています。人間の思考はほとんどの場合、それぞれ固有の言語を用いて行われます。英語で考える場合と日本語の場合では思想自体が変化してくることがあります。禅につきものの漢語で考えるとまた違うのかもしれません。他方人間には言葉で考えない思考があります。

感情の動きだけでなく、幾何の問題を解くとき、スポーツするとき、作曲、演奏、絵画その他に言語を伴わない脳の創造的活動は沢山あり、多くの場合言語を介した思考過程より優れた結果をもたらします。

テニスの試合の組みたてや滑降コースのこなし方など、状況の理解と計画は言語思考によって行われるかもしれませんが、その実行に際し言語に頼っていては速度の面で処理が追い付かない場合があり、非言語思考は不可欠なものです。言語が発達する前はこちらが主流であったはずであり、現在でも地球上のほとんどの動物は言語を持たずに生活しています。

人間の心の働きは言語によらない思考の方がはるかに大きいのかもしれず、禅の目指す不立文字とはこの非言語思考の世界なのでしょう。心が仏だ、と言った場合の心とは、言語を用いないで思考する心を含めた人間の心の本質を指すものと考えられます。


禅では繰り返し言語を否定し言語を越える訓練をさせるのは、言語構造から離れた思考形態、物事を理解する方法を追い求めているのではないでしょうか。私自身はそれが可能かどうかわかりません。禅の世界、物事の本質を考える世界でも、非言語思考が理想なのでしょうか。言語とは思考をまとめるためのツールではなく、他人とのコミュニケーションにのみ役立つべきものなのでしょうか。いや、コミュニケーションすら、言語を超えた一枝の花でなされる方が正確なのかもしれません。

人間の脳の非言語の世界は言語で意識しているよりはるかに大きな部分を占めています。しかし、私はその非言語によって高度な思考を扱うということは、言語を否定し、心を空にし、言語習得前の赤子の段階に戻ることによって可能になるとは思いません。それは最初から人間の脳の中にプレインストールされているプログラムだけでは不可能でしょう。



普段の生活で強化され用いられる非言語思考は、通常は外界との物理的関係を司る反射的な、又は比較的単純なプログラムが主でしょう。色による炉の温度管理、指先による微細な陶土の厚みの制御、その他職人芸とも言われる名人達の熟練技術は非言語によるものが多いようです。

未知の分野の研究者、発明者達は、混沌とした非言語の思考の中から産まれるひらめきこそが重要であると言います。発想のあたため期とか、潜在意識の思考、右脳の活動などともいわれ、これを積極的に、効果的に活かす方法も提言されています。

繰り返しによる固定されたサブルーチンを作るだけではなく、言葉にする前の一見もやもやとした非言語思考の段階での思索活動をいかに深く複雑なものまで扱えるようにするかは相当の訓練が要求されるはずです。それを成し遂げた人、または早い時機から脳がこれを発展させた人は「天才」と呼ばれることになります。

禅においては非言語による思索を深めるのを助けるのが公案であり修行であると思います。それにはじっと座禅しつつもフルに頭脳を活動させ、新しい非言語の思考プログラムを創り出してゆく努力が必要だと思います。もし、それが出来たと信ずる状態が得られれば、それこそ大声で「悟った!」とわめいてもいいかもしれません。それは言語を通じては他人と分かち合うことが出来ない感動なのでしょう。

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犬足:一時言語(通訳)を仕事にしてました。ご存知ない方は同時通訳に感心されますが、同時の方が逐語(区切って訳す)よりやさしいと思います。 長い内容を全て記憶することは難しいですし、ノートを取っても100%記録は無理です。

同時ならそのまま話者の発言通りオウム返しにしてゆけばいいので、プロンプターがついている役者のようなもので、全く台詞を覚える必要がありません。 判りやすい内容の場合は同時進行が可能で、話者とほぼ同時に話し終えることが出来ます。

困るのは話者の内容が不明確な場合で、そのときは支離滅裂なままの通訳になります。 あるとき日本人の話が全く意味不明瞭で、イヤホンで英語の通訳を受けている米人は困ってるだろうな、と思っていたら、 同席した日本人の偉い方が「ちょっと待て、俺全然判らないよ」と言ってくださいました。 その通り通訳した英語を聞いていた米人の笑顔が素敵でした。