第三十四則 知不是道

目次へ 次へ


和尚が言った。「心は仏ではない。智は道ではない」

無無門和尚の解説:この和尚も言ったものだ。年老いて恥を知らない。 臭い口を開いて、家の恥を晒してしまった。それでもこの和尚の恩を知るものは少ない。


本当の心とは普通に物事を考えている心や、本で読んだり人から聞いた知識ではないでしょう。 からっとした空のような無の境地こそが本質であり、心や知識という名前では呼べないものです。 心だ仏だ智だ道だと、言葉にとらわれていてはいけないのです。

禅の目指す無、何もない、ということは本当に何もないのではありません。もし本当に心も仏もない、 何も考えないのであればそれは植物状態患者、深い眠り、そして死でしかありません。 意識、知恵、心、道、そういった言語世界での意識を超えたところに、新しいレベルでの本質があります。 禅においては赤子のような、自分が生まれる前の、何も煩悩に惑わされないもの、主人公とか無位の真人とか、色々に呼ばれています。

しかしそれは決して本当の赤子、本当の何も書きこまれていない脳のハードウェアそのものを指すのではないでしょう。 仮に、人間の脳と同じだけの数の記憶素子、またはバイオチップを並べ、そこに何もプレインストールソフトのない純粋の脳が出来たとしても、 それは禅の目指す無の心ではないはずです。

そこには人間としての基本のOS、必要にして十分な最低限のソフトウェア、最も効果的に人間性を扱える基本プログラムに加えて 高度な思考を可能にする完成された非言語ソフトが確立されていなければならないでしょう。 それだけを純粋に抽出した状態、余分なアドオンソフトを全て切り捨てた状態こそが悟りの世界なのでしょう。



親が複数の個体に分裂増殖する生物では、分裂の時点で親の存在は消滅し、新たな二つ以上の個体が誕生します。 もしもその神経系内に「意識」が発達していれば、分裂した子の個体の中で再構成されるまでは親の意識は喪失しています。

生殖の後も親子が別個の意識を継続維持する生物では、母は子を産み、母の持っていた基本ソフトは 膨大なデータと共に新製される子の脳の中へと伝えられます。血液循環のポンプである心臓を一定のサイクルで動かすこと、 酸素の吸収のための呼吸の方法から、生存に必要なプログラムとデータ、また食物の分解と化学処理、視覚聴覚をはじめ様々な身体器官の運営とメンテナンス、これらの全てを管理するプログラムは「本能」という基本OSとして、親から教わることなく、子の脳の中に再構築されます。

その基本ソフトはいつも一定ではないようです。三世代をかけてメキシコから北米へと数千キロの渡りを行う蝶の一種は、 世代によって旅立つ方向がプレインストールされています。北へ北へと旅してカナダへ到達した次の世代の子供たちは、 一転してまだ見たことのない三世代前の母国南方メキシコの産地へと一世代の内に一気に飛び戻ります。


複雑な生存のためのメカニズム、見たことのない南の母国へと帰る意図、はるか南の海で産まれた鰻が母が育った川を捜し出すプログラムまでが 世代を超えて子供の中に再構築されるのなら、何故脳の活動の一つである「人格」は再構成されないのでしょうか。

死に際して一旦喪失するように見える「意識」も必ずどこかで、または幾分かは再構成されるにちがいない、 人間の意識は決して無からは産まれない、個人の死は新しい生につながらねばならない。昔の人はそう考えました。 「前世」の概念や、生まれ変わり伝説もこの世代を超えて伝えられる情報と関係があるかもしれません。



太古の昔、生命は小さな未知のものから生じました。その時点では南へ帰るプログラムや複雑な採餌の本能は存在しませんでした。 それらは代々受け継がれる途上で次の世代の脳の中に新たに書き込まれ、次第に蓄積されてきました。突然変異によるか、 試行錯誤を含む学習によるかして獲得された情報やプログラムは親から子へと、生れてから教わるのではなく、 精子卵子の段階で組み込まれ伝えられてきました。

人間についても、どこまでがその本来備わった心なのか、どこからが後からその個体が蓄積したRAM段階の一代限りのものなのかが問題です。 禅では後から獲得した知恵ではなく、人間に本来備わった部分に大きな期待を寄せています。生まれたままのハードの中にこそ何にも汚されていない人間の本質であるプログラムがあるとしています。 この考え方によれば、生まれたままの赤子を環境から隔離して培養しても、人間としてのソフトを備えた完全な人格の発現が可能なのでしょうか。

私はそこまで本来の人間性に対して楽観的にはなれません。人間の意識を産み心を形造るものは産まれたままのハードには プレインストールされてはいないと思います。それは後天的な環境の影響により個々に発生する一代限りのソフトであると思います。

仮に禅の悟りが生れたままの人間に最初からインストールされているようになるとしても、それには長い長い進化の時間が必要でしょう。 悟りを得た心、仏としての心は決して人間が生れたままの状態に戻ることでは得られません。それは後天的にRAM段階で蓄積せねばならず、 それを目指すことが禅の修行だと思います。

人間の意識、心とは、基本となる生存のOSの上に生まれた高次のソフトであり、個別の生命体に後天的に生じたRAMの中にのみ存在し、 別の個体の中に遺伝的に再構成されることはないでしょう。従っていかに悟りを得た和尚といえどもそれを自分の子孫にそのまま残すことは出来ません。 その子供はまた、和尚の歩んだ道を辿り、自分で悟りを得なければならないのです。

心は仏ではない、知は道ではない、ということは禅の悟りを安易に伝え再構築する方法はないのだ、ということを強調したものと思います。 自分の心は自分で定めるしかないのです。



目次へ 次へ

犬足:学校時代、まちがって「指道」と書いた人がいました。
先生が「道を指すだけなら簡単だよ」と笑っておられました。

どの道を示したらいいか、それに向けてどう導いたらいいのか、それは自分で決めさせるのか。
宗教だけでなく、社会の指導者の役割は難しいのでしょう。