第三十五則  倩女離魂

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和尚が僧に聞いた。「魂と肉体が別々になっていた女があった。どちらが本質か」

無門和尚の解説:もしこの本質が分かれば、殻を出て殻に入るということ、旅館に泊まるようなものだということが分かるだろう。しかしもし分らないのならば、一生懸命走り回ってはならない。突然天地が飛び散ってしまい、熱湯に落ちた蟹のように手足をもがくことになろう。何も言われなかったなどと言うでないぞ。


これは古い物語の中の話が元になっています。ある美少女が親の用意した結婚でなく、好きな男と駆け落ちしました。 永らくの時を経て戻ると、実家にはその少女の肉体が意識のないまま寝ていたが、 その肉体は起き出して、戻ってきた少女と一体になったということです。

この物語は一見怪談風ですが、現実に意識と肉体の分離が可能になる時代がくるかもしれません。 まだSFの段階ですが、人工知能が進めば、人間の意識をコンピュータの中に創り出すことが可能になるかもしれません。

更に進んで、コンピュータの中に自分の全ての意識要素を転写することにより、 自分と全く同じ意識と非言語思考を含む全ての心の動きを持つ人格を創り出すことも可能になるでしょう。 その場合、意識を写し取られた肉体の方はコンピュータへ移された人格との干渉を避けるため、 そのまま目覚めさせずに保存することになるかもしれません

第八則のところで、自分の意識をコンピュータに移植した科学者が、 目覚めたときに自分がコンピュータ側にいることに気付き、得意そうに覗き込んでいる自分自身と対面するというSFを紹介しました。 小説ではコンピュータ側に閉じ込められた自分の意識が発狂しそうになり、人間側の自分がスイッチを切り、 安定回路を組み込んでから再起動することになっています。

このコンピュータ側の意識は人間でしょうか。人間であるとしたらどちらが自分の本質か。 写し取られた生身の人間が従来通り併存すればいいですが、コピー操作の過程で損傷を受け、覚醒不能になるか、 または変化を受け、コンピュータ側に転写された方が以前の自分に近いとしたらどうなるでしょう。



人間の頭脳の転写ではなくても、創出した人工知能をそっくり複製することも考えられます。
コピーされた二つの人工知能は最初は全く同じ反応を示すことでしょう。 しかしそれらを入れている二つのハードウェアに全く同じインプットを継続することは困難ですし、 微妙な揺らぎが偶発的な変化を産み出し、二つの意識は一卵性双生児の成長のように異なった道筋をたどり、 異なった人格を産み出すことになるでしょう。


しかしここで和尚が問うのは、まだ精神同士のパラレルワールドの段階ではなく、 肉体に縛られている自分と、肉体から離れた心としての自分はどちらが本質か、ということでしょう。 この和尚の時代には人工知能の認識はありませんでしたが、、心は何らかの方法で肉体から分離保存することが出来、 または別個に考えることが出来るという予感はあったものと思われます。

それは不滅の魂、霊魂、仏性などと認識されてきましたが、現代の感覚で言えばハードウェアの肉体とソフトウェアの精神の差でしょう。殻を出でて殻に入る、旅館に泊まるようなものだ、という無門和尚の解説は、移動しても本質はそのソフトにあり、ハードとしての殻ではない、と言っているのだと思います。


我思う故に我あり、とは、自分の存在はハードではなく、ソフトにこそ本質があるということでしょう。「コンピュータ、ソフトなければただの箱」であり、人間の本質はそのソフトにあります。これに従えば意識を取り戻すことが絶対にない人体は人間ではなく、意識を持ったコンピュータソフトは人間であるべきです。コンピュータとは必ずしも無機的なものであるとはかぎらず、バイオチップ、生体組織を活用した人工脳髄、または意識を持たないまま人間の生体構造を成長させ、後から人格を書き込むことの出来るクローンでもよいでしょう。

人間の特性を備えた人工頭脳を作成するための唯一の技術的課題は、現実の人間の脳の中で発達した意識や人格を構成するプログラムを転写または創生することができるかどうかです。現実にロボットは歌を歌いダンスするだけでなく、数十人の顔を覚え、ある程度状況に対応した会話が出来るまでになっています。技術的には人間と同程度の能力を持つハードウェアは製作可能であり、人間の頭脳の中の働きが解明できれば、人間と同等の人工頭脳は実現するでしょう。

宗教的、または倫理的観点からこれを是としない動きは生ずるでしょうが、自分自身をも分析し解明したいという人間の知識欲は留まることがないでしょう。無門和尚は意識が人間の肉体を離れて存在することの可能性を既に見通していたのでしょう。禅はキリスト教と異なり、人間の本質の人工的創生も許容しているのかもしれません。



脳の活動能力を完全に失った人間の肉体は仮に心拍や呼吸が継続し、生殖能力を有していたとしても人間とはみなされません。反対に肉体を失った精神、意識構造だけが存在したとするとそれは人間でしょう。この少女の場合、実家で寝ていたのは人間ではなく、家出していた精神の方がその少女の本体でしょう。

精神がソフトウェアであるとすれば、精神の本質は、それを担うハードウェアは充分な性能と容量さえ持っていれば何であるかを問いません。SFの世界では超意識体として宇宙の原子、素粒子や場の変動そのもの全てをハードウエアとして利用した不滅の意識体が登場します。それは一般宗教での神に似た万能に近い存在として描かれています。

そこまで極端にならずとも、精神のデータ化さえ可能になれば、 巨大なプログラムとしての精神活動を支えるハードウェアは人間の脳である必要はないでしょう。 その新しい入れ物は自然科学の発展の延長線上にあるのかもしれないし、 この公案のような超自然現象の中にあるのかもしれません。 しかしいずれにしても本質は人間の肉体ではなく、その心にあるのだ、と無門和尚は提言しているものと思います。

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犬足:人間の体には約40兆個の細胞があり、複雑な化学処理を行う内臓設備、眼球、脳の中のスーパーコンピュータまでを形成していますが、 これらを生み出すための細胞分裂の回数は、約50回だそうです。 脳細胞は400億個あると言われますが、数としては30数回の分裂で出来てしまいます。 この間に全ての論理回路と基本ソフトウェアを組み上げる必要があります。

だからといって、脳の物理的構造とは独立して「霊魂」が存在する、とも僕は考えません。では心とは何で、どうやって生まれるのか? その指針が科学であり、哲学であり、宗教なのでしょう。遠い未来、この3つは高いレベルで統合されてゆき、究極の「心」を生み出してゆくでしょう。 それは超生命体の中に宿るのか、様々な形態のメモリーを駆使した無機構造となるのか。それとも宇宙の構造そのものが「心」を持つようになるのかもしれません。



お断り
私のページで時折出てくる女性の顔は、モデルはありますが、大幅に創作加工したものです。
私の知る限りご本人を含め似ている方はありませんが、もし偶然おられましたら、空似としてご容赦ください。