第三十六則 路逢達道

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和尚が問うた。「路で道を究めた人に会ったら言葉で応対してもいけないし黙っていてもいけない。さあ、どう対したらよいか」

無門和尚の解説:もしこれに正しく対応できるなら大変欣快であろう。まだそうでないなら、全てのものを注意深く観なければならない。


私ならどうするでしょう。禅寺の境内の、掃き清められた石畳の通路を両手を胸に当てた雲水が歩いてこられたとすれば、 私はジーンズに皮ジャンパーのまま、そっと一歩脇によって目礼をして通り過ぎるのを見送るでしょう。

先方も軽く目礼されるか、正面を向いたまま黙って歩み去られるでしょう。それだけで私の心には何か清々しいものが残るでしょう。 そのお姿は私にとって黙って指を一本たてられたと同じような効果があるでしょう。

無門和尚は後の詩で、俺なら拳でぶん殴ってやる、と言っています。私はそれでもいいと思います。 それは適切ではないとする解説書があります。しかし多くの解説書では具体的な答は示されていません。 この種の応用問題こそは各人各様の応答例を示して貰っても修行の害にならないと思うのですが。 無門和尚すらがここでは答の例を示しています。答えの例をいろいろと見せていただくことは大いに勉強になると思います。

昔活用されたインキの染みを見せて何か言わせる心理テストでは、考え付く限りの種々の回答例が用意されていて、 それぞれに解釈がつけられていました。しかしそれらの回答例は採点者側のみが知っており、 当然のこととして回答者側に提示されることはありませんでした。

禅の公案についても、実は人知れず指導要綱が完成しており、公案に対する回答によって弟子の進度を確認し 指導方針を変更するシステムになっているのかもしれません。そしてそれは書面としては残されず、 口伝により禅の本当の指導者として認められた者だけの間で伝えられてゆくものなのでしょうか。



多くの解説書で答の例を示されていないのは、答の例を示すことがタブーになっているともとれますが、 禅の解説者の方々は自らの回答を示すことを意図的に避けておられるのだと思います。 何故なら多くの解説書では具体的に解釈しようとしたものを否定しているからです。

無門和尚のテキストも否定的な表現が多いのですが、中には正面から肯定的に説明されているものもあります。 無門和尚は決して答の例を挙げることを忌避してはいません。この課題に対しては俺ならぶん殴ってやる、と乱暴な例を示していますが、 これは第二十五則と同様、 自分なりの表現方法を持て、自分の心を伝えるよう努力せよ、というメッセージと受け取りたいです。

解説者の方々も「その答がだせないようでは禅の道を極めることは不可能であろう」とだけ言われないで、 ぜひご自分の答を一例として示してください。それは言語では説明できないものなのだ、ということも判りますが、 著名な日本の禅の教科書でも、古来未だ一語をも言わないものの人物を認めるということはないのだ、と言っておられるではないですか。

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犬足:師の前で公案の解釈を説明し指導を仰ぐ参禅は、その内容を口外してはならないのだそうです。何故でしょう?  他人の例を聞いてしまうと自分の考えの邪魔になるのでしょうか。

上図は、最新の自家用機のコクピットです。従来の計器盤とは全く違うのですが、示される情報は以前よりずっと多くなっているでしょう。 従来のアナログ計器による機体やエンジンの主要情報は液晶のディスプレイに表示されます。 ナビゲーションシステムはGPSを使ったものになり、地図だけでなく地形を立体的に表示することも可能になっています。

下は多発の爆撃機ですが、この他にフライトエンジニア用に大量の計器があります。 新しい計器は、これらの情報を選別し、重要なものだけを表示するようです。 僕は飛行機の免許は持ってないので本当のことは判りませんが、パイロットに提供される情報が変化し、その役割も変化してきていることは間違いないと思います。

情報は多いほどよいとは限りません。取捨選択し、必要なものを取り入れてゆくのは、技術分野だけではないでしょう。 余分な情報が入ることで禅の公案の本来の目的が損なわれてしまう、と考えれば、参禅問答の秘密扱いも納得できます。 その「本来の」目的は、本当に禅に取り組んでみないとわからないことなのかも知れません。

しかし、パイロットに提供される情報の取捨選択や表示が、技術の進歩と共に変化していることは、悪いことではないでしょう。 科学の進歩と共に宗教、そして禅に関する情報も変化し、その扱いが変化してもいいと思います。ローマ法皇でさえビッグバンを認めておられたのですから。