第三十七則 庭前柏樹

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僧が聞いた。「達磨がインドから来た理由は何でしょうか」
和尚が答えた「庭の柏の樹だ」

無門和尚の解説:これがしっかり判るなら、釈迦も弥勒もないようなものだ。


この僧の質問は第五則と全く同じです。これは、仏とは何かという質問と同様、禅の世界ではしばしば本質や考え方を問う質問として用いられるものだということです。これに対し第五則では木の枝を咥えたままこの質問を受け、応えれば落ちる、応えなければ礼を失する、どうすればよいか、としており、私は、問題の答は与えられた条件の中にはないのだ、課題に縛られてはいけない、と解釈しました。

柏の樹とは、禅寺によく見られる葉の茂った大木だそうです。葉を茂らせて寺に日陰を与え、景観をもたらし、様々に役立っています。しかし柏の樹自体は何もそれを意識してはいません。そのために存在しているのではありません。自らは動くことなく、働きかけることなく、ただ立ち続けています。

その意義や利益は周りの人間が勝手に解釈し利用しているだけです。大きな木はその存在自体が意義を持っているかのように堂々たる容姿を示しますが、それは意図してそう振舞っているのではありません。それこそ自然の姿として、あるがままに大きくなっています。

仏の本質とは、そのように自然に伸び伸びと、徒な意図に乱されることなく成長しているもの、太陽を受け、雨に恵まれ、風にそよぎ、がっしりと安定した姿こそが本質を現しているのでしょう。その姿にこそ仏の本質に通ずるものがあります。達磨がインドからはるばるやってきた意は、正にこの自然体にあったのでしょう。



植物とは、地球上における最も理想的な生命形態であるといいます。水と日光と炭酸ガスを主原料として巨大な安定した構造物を作り上げ、動物をはるかに超える長い期間安定した生命活動を維持します。そのシステムは太古の昔、星ぼしが産まれ、惑星が産まれ、生命が産まれた後、動物とは異なる形態として発達してきました。

植物には意識を産み出す神経系は存在しませんが、植物の細胞の中にも動物と同様に、樹木全体の構成を司る設計図が組み込まれています。人参の赤い部分だけを取り出して培養を続けると、やがてその中から緑の葉も複雑な根も生じてきます。それまで分裂により赤い部分だけを産み続けてきた細胞一つ一つに人参全体を再構築できる情報が含まれているのです。


その情報を読み解き、大きな柏の樹を形成させる生命の働きは、たった一個の細胞から人間全体を形成する仕組みに共通したものがあります。形こそ異なりますが、柏の樹も人間と同じ生命体であり根源を一にしています。

人間を産み出したもの、柏の樹を産んだもの、そして自分を産んだものは全て一つです。それを仏と呼んでもよいし、それを本質としてもよいでしょう。そこに立ち戻って物事を考えることが出来れば、禅の目指す本質の理解が達成されるのでしょう。


無門和尚は詠っていいます。言葉は事実を完全には表現できず、心を本当に現してはいない。言葉をそのまま真実と受け取るものは自己を失う、と。言葉とは柏の樹や人間をもたらした生命の本質からはるかに離れた表層の表現手段でしかないのです。言葉には真理はない、言葉で表現されたものは心の本質ではない。しかしこれまで言葉を重ね、公案を重ねて理解に努めてきました。それは無駄ではないのです。それは理解を進める手段として不可欠のことでしょう。

しかし生命の本質の姿は柏の樹です。意識を持たない、言葉を持たない、生命としての存在だけが堂々と立っています。そこには必要にして十分な生命維持のシステムを構築するための情報伝達が行われています。言葉の世界で迷い、悩む者は柏の樹に戻り、生命の本来の意義に戻って考えてみるべきでしょう。

多くの解説者が述べているように、この段階の生命の本質の理解は言葉を通しては得られないものかもしれません。 そしてそれは実際の禅の行動を通してのみ得られるものかもしれません。

前則に続き、無門和尚はあまり解説を加えていません。大きな樹木を見上げ、そこに太古の生命と植物の命の不思議を思い、 生命の本質を思うとき、その感慨は見る人それぞれによって異なるであろう。それでよいのだ。と無門和尚は言っているようです。



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犬足:柏の樹は既に完成されたものであり。「心」に悩まされる必要のない理想の生命形態となっています。 生命としては動物以上に進化し最適化された植物には、心の必要性がないでしょう。 じっとしているのが嫌になった、等ということは適者生存を原理とする進化の過程では通用しません。

しかし、新しく宇宙が始まる場合には、別のストーリーも考えられます。 生命、植物、動物、というものが産み出される状況は一つではないのかもしれません。 新しい宇宙でのこの則は、有機肥料を産むために飼育されている「庭前の家畜人」となるかもしれません。