第三十八則 牛過窓櫺

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和尚が聞いた。「例えば水牛が格子窓を通り過ぎるようなものである。頭も角も四つ足も全て通り過ぎていったのに、何故尻尾だけが通り過ぎることが出来ないのか」

無門和尚の解説:もしここで禅の眼を開き、適切な一語を吐くことが出来るなら、これまでの四つの恩に報い、 三つの迷いを救うことが出来るだろう。もし判らないのなら、この尻尾をよく観察してみるがよい。

これも難しい課題の一つで、様々な解釈がされています。「格子窓を過ぎる」というのも実際に牛が格子をすり抜けていったり、 牛が窓から出ようとしたが尻尾だけひっかかってしまったという象徴的なものと、窓の外を通過するのを眺めている、 とするものがあります。共通しているのは、大きな本体が通りすぎたのに何故小さな尻尾が残っているか、ということです。

この尻尾が何を意味するかも様々に解釈されています。何か引っかかっているということが問題だ、自分の心にひっかかっているものを掴め、何が支障になっているかを考えよ、という否定的なものから、それこそが最後に残る仏性である、残ったものが大事なものだという肯定的なものもあります。


一番単純で明快な解釈は、「牛が立ち止まっただけだ。細かいことは気にするな」です。初めにこの解説を読んだときは、何だ、馬鹿にしないでほしい、と思いましたが、様々な解説書を読み比べ、ここまで無門和尚のテキストに付き合ってくると、牛が立ち止まる、ということにも大きな意味があるようです。テキストでは通りすぎることが出来ない、となっており、尻尾が何かにひっかかった、とも考えられますが、尻尾が通りすぎるまで完全に牛を動かすことが出来ない、とも解釈できます。

問題は無門和尚が尻尾で意図したものは何かということでしょう。無門和尚は分かるまでこの尻尾のことを懸命に考えよ、と言っているだけで答を示唆してはいません。



私は、何事も完全に分かるということはあり得ない、と解釈したいです。必ず何かが残る。また残らねばならない。 無門和尚の尻尾とは、完全に理解したという奢りを戒めるものであり、物事の奥の深さを示すものであり、常に限界まで追い求める徹底さを表すものでしょう。

第九則で、完成したと思ったら終りだ、という則がありました。言葉の限界を改めて持ち出すまでもなく、物事を説明し理解することで全てが終わるということはないのです。それは禅の道と限りません。まだ何か残っているものがあるはずだ、まだ先があるはずだ、と思うこと、またそう思えることが幸せを産む場合もあります。


残ったものは細かいことだから気にするな、と片付けてしまうことも出来ます。それで満足が得られるのならば一つの方法でしょう。必ず何かが残るのだから、そのまま受け入れよ、という考え方もあるでしょう。また第三十三則では人には四分の三だけ説明し、全部説明しようとしてはならない、とも言っていました。

全ての物事に際し、残っているものは何かを深く探求します。何もないと思っても必ず尻尾が残っているはずです。 残った尻尾とは何なのか、際限なく残っていく尻尾を理解し、常に追求を続けつつ全てを受け入れることが出来れば、 尻尾自体の意義も大きくなり、そして牛自体への理解も深まるのでしょう。



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