第三十九則 雲門話堕

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僧が和尚に問うた。「光明は静かに全宇宙を照らしている」と言いかけたら、 和尚が「それは高名な某和尚の句ではないか」と言った。僧が「はい」と答えた。 和尚は「そんな話ではだめだ」と言った。後に別の和尚が引用して言った。「この僧の話のどこがだめなのかを示してみよ」

無門和尚の解説:前の和尚の近寄り難い働きと、この僧の話のどこが駄目なのかが判ったら、禅の師匠となることが出来るだろう。 判らないなら、自分を救うことさえ出来ない。

この則は、多くの解説書で他人の言葉の受け売りではだめだ、と解釈されています。しかし本来学ぶということは他人の言葉を取り入れることから始まります。この無門関からして、全てが他の和尚達の発言の引用です。しかし無門和尚は敢えて問うています。この僧が話にならないのはどの点であるか、と。

自分の考えとは、これまでに自分にインプットされた情報を基本としています。外部からの情報を学ぶことなしに今の自分は有り得ません。私は第二則のところで、人間を全く外部刺激のない状態に隔離して育てたら、そこで成長した脳はどうなるか、という問題を提起しました。

充分な生理的条件さえ与えれば、受精卵は胎児となり幼児となり、成人の姿まで成長を続け、頭も脳もハードとしては人間となるでしょう。眼は物体の姿を見る技術を学ばず、言語を覚えることもなく、言語による論理的な思考は存在し得ないでしょう。コンピュータ、ソフトなければただの箱、であり、そのシステムの立ち上げプログラムすら起動しないかもしれません。

それとも、人間の脳にはOS(基本プログラム)としてかなりの部分が受精卵の段階からプレインストールされており、全く外部刺激がなくとも自動的に立ち上がり、物理的な肉体の成長に従ってプログラムが自己増殖し、二進法の機械語のような独自の言語による思考を開始するかもしれません。

もしそこに人格が生まれ意識活動が生まれるのであれば、たとえ人間が後天的に作り上げた言語によらなくとも一つの自己完結した意識世界を産み出すでしょう。それは純粋の人間の基本をなすものであり、どんなものになるかは非常に興味深いことです。 



単細胞の精子と卵子が結合し、分裂が開始され細胞の分化が始まったとき、脳となるべき部分には、ある時点で生命維持システムの管理運営、及び情報収集と学習のための基本OSが書き込まれます。それがどの段階でどのように行われるかは人間にはまだ見当もついていません。

しかし全てのOS、もしくは自己増殖するプログラムの出発点、脳のハードウエアの製作仕様書だけでなく、ソフトウェアを完成させる方法と初期データまで、全ては遺伝子情報としてゲノムの中に書き込まれているはずです。

いつの日かそのプログラムの全貌が明らかになった場合には、そのOSを理解するだけでなく、OS自体をアップグレードし、または新システムに置き換えることで新しい人間を創造できるかもしれません。

そのOSを自己完結、自己増殖型のものとし、繰り返し操作より初期に設定したOSの影響を徐々に消し去ることで、全く他の影響を受けない、個としての純粋な人間の意識活動が生まれるかもしれません。それこそが人間本来の姿、無位の真人なのでしょうか。


現実には、他の者の発言を取り入れないで物事を考えるということは不可能です。今そうしていると思っても、そうしている自分は既に外部からの影響を受けて育ってきたのであり、外界から隔離されて言語すら持たない状態で培養された頭脳ではないのです。

現存する人間を対象としている限り、そこには学び、取り入れた外部からの知識の活用があるのは当然であり、他人の言葉も利用活用することは必須です。無門和尚も引用を絶対的に否定してはいません。他人の言葉を全て否定したら言語による会話すら成り立たなくなります。ここでは無門関が引用を主としていることにも配慮し、学ぶ上では引用や参照は不可欠だが、ただ引用し反復するだけではだめなのだぞ、とここで改めて戒めているものと思います。



この則は無門関自身にもあてはまります。無門関の意義は単なる古来の公案の引用ではなく、それらの断片を意図的に集め、解説を加え、ある目的に添って並べたことにあると思います。これをばらばらにし、単独に引用されたオリジナルの課題だけを検討したのでは、それこそ無門和尚に、そんな話ではだめだ、と言われるでしょう。

無門和尚のメッセージは「他人の話をそのまま受け売りしているのではだめだぞ」というだけではなく、「この無門関は他の和尚の公案の単なる引用や紹介ではないのだ。俺の言葉として読み、俺の編纂した意図を汲み取れ」と言っているのだと思います。

これは第二十七則から始まり前則の残った尻尾までの、心に関する部分のまとめと考えることが出来ます。ここまでのことは自分のものとなったか、過去の和尚の言を借りてまとめてやった俺の意図が分かったか。と無門和尚が髭の奥から微笑んでいるようです。



犬足:心とは何か、知とは何か、は、無門関の大きなテーマの一つだと思います。

イルカは人間よりはるかに大きな脳と、優れたデータ処理能力を持っています。 イルカの頭部の「メロン」と呼ばれる突起は水中の音波を解析する音響レンズだそうで、我々が光波で物を見るように、 超音波で見ることが出来ます。正に「耳で見る」です。

この分解能は遠距離では人間の目より優れ、サッカー場の反対側のゴールにあるミカンほどの大きさの 物体の球、円盤、円筒の違いを見分け、人間に教えます。 周囲にいる動物の骨や内臓の様子も見通せるそうです。生体版超音波スキャナーですね。

イルカは人間の教える単語から文章を作ることも出来、「人、水、輪、取る」と言うと、意味のない「水」という語を削除し、輪を取ってきて特定の人に渡します。 「人、水、取る」と言うと何もしないで不審そうに?見返してくるだけだそうです。 水底に輪を沈めておき「輪、くぐれ」と言うと輪を一旦水中に持ち上げて浮かしてからくぐります。 単語を並べて示した全く新しい芸を、二頭が共同して直ちに行うことも出来るということです。

輪くぐりは、イルカが好きな行動の一つで、人間がタバコの煙でやるように自分で空気を吹き出して水中に輪を作り、その中をくぐって遊ぶ姿が紹介されています。 理解と自発的な遊びのあるイルカには、「心」も「知性」もある、と言っていいでしょう。
イルカに関しては、カール・ジンマー「水辺で起きた大進化」によりました。

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